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[コメント] 旅路(1958/米)

「普通の会話」が引き起こす感動。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







4.5

私は何100本か映画を見たことはあるが、単純にストーリー自体に感動した作品は5本もない。というのも映画に感動だけを求めているわけではないからだ。この作品は私が感動した数少ない映画のうちのひとつ。(なんと映画を観終ったあと絶交していた友人と仲直りしてしまったほどだ!)

前置きが長くなってしまった。すみません。以下分析。

ラストの場面、ホテルを去ろうとしているニーブンにそれぞれのテーブルからそれぞれの人々が話し掛ける。どれも皆ごくありふれた会話なのだが、傷心しているニーブンに対しそれらの言葉の一つ一つはこの上なく温かいものになっている。問題は話し掛けるか否かだったから。話し掛ける事によってホテルの宿泊客らは(特に強い絆で結ばれているわけではないにしても)、自分たちはまだニーブンを見捨ててはいないという意思表示をしたのでる。宿泊客の間には、たとえテーブルは離れ離れでもある種の連帯意識が見受けられる。そして彼に自分の持つささやかな、本当にわずかばかりの愛情を与えた、と取ることができる。それが彼の大きな助けになる事を知って。

もうひとつ、別の観点からラストを見てみるとそこにはまた別の意味が見出せる。宿泊客がニーブンに話し掛けると、一人のばあさんが席を蹴って食堂から去るシーンがある。このばあさんこそデボラ・カーの母で、ニーブンを一人窮地に陥らしめた張本人である。彼女は宿泊客の中で抜きん出て意地悪く描写されながらも圧倒的支配力を持つというキャラクターとなっている。ところが彼女が先頭を切って追い出そうとしているニーブンに人々が話し掛けたことにより、彼女は宿泊客らに「裏切られた」のであり、その場にいることなど出来なくなって(はっはっはっはっは、ざまーみろ!)立ち去るのである。

ばあさんのラストまでの邪悪な立ち振る舞いには、宿泊客らも映画を見ている自分も強い憤りを感じながらも抵抗できなかった。そしてラストで見事にこの悪玉をやっつけるという構造は、言い換えれば忠臣蔵タイプの構造である。我慢して我慢して、最後になって諸悪の根源をぶっ潰すストーリーは終わってみればかなり痛快だ。

このラストにはニーブン救済とばあさん打倒が同時に行われている、言わば二重構造を持っているのである。

(評価:★4)

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