[コメント] とむらい師たち(1968/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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国際葬儀協会、略して国葬。「国葬」とは本来、国がその死を称える行為であり、それを引っくり返すようなダブルミーイングは、この映画が、戦争による無数の死があった事実を背景に置いている事の一つの表れだろう。美容整形の先生(伊藤雄之助)はガダルカナルで惨たらしい死を目の当たりにした経験を語り、国葬の依頼主の社長(藤岡琢也)は、従軍した際の思い出を自分の葬儀に使いたいと言う。
だが、平和な日本では、死は影に隠れ、またその影では、大量の堕胎という死がある。そのような死を、勝新太郎演じるガンメンは、見世物小屋的な発想で演出する。国葬の仲間達が死をレジャー化する事に違和感を抱き、離反する彼だが、彼の演出する死の恐怖は、それ自体が一つのレジャーであるように見える。彼の主催した大々的な水子供養は、却って堕胎児を冒涜しているように思えてしまう。
死への恐れか、それともそれを忘れさせてくれるレジャーか、という二者択一が、結局は本物の死を前にしては児戯に等しい事が、あのラストに表れている。死という「無」、闇に包まれ、何も見えなくなっていく黒い瓦礫の山を前に、恐れも、楽しみも、無に還る。「これこそ本当の葬博やないか…」というガンメン葬博な呟きからは、娯楽や商売と化した葬儀を批判していた彼自身が、最後の最後に初めて死というものを悟った呻き声が聞き取れる。
ガンメンが葬博実現の為に駆けずり回っていた時、或る男が、ガンメンが引き合いに出した水爆の話を「日本全体を滅ぼすような兵器なんて、実際に使っても何の得にもならない」とバカにする。この何気ない台詞が、あのラストに利いてくる。死とは、合理的に予測しきれるものではなく、或る時、突然にやって来るもの。死とは、無意味、ナンセンスであり、不条理、バカバカしさであり、死に対する人の恐れもレジャー感覚も、人の思惑など超えた死の掌の上で踊らされているに過ぎないのだ。
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