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[コメント] 鬼の棲む館(1969/日)

三隅研次ゆえか、キャラクターが単純明快すぎるように思えるが、後付け解釈すると結構面白い作品だと気がついた。
TOMIMORI

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







左から順に如意輪観音菩薩、勝新太郎の鬼、不動明王というなんとも力強いショットがあったが、 如意輪観音菩薩は新珠三千代で、不動明王は高峰秀子であろう。

食うものも燃料もなくなったので、勝新が京へ行く時に 「股座でもあぶって待っておれ」と言い如意輪観音をぶった斬るのだが、 その瞬間、如意輪観音だった愛染は愛染明王になる。 つまり右肘をついて妖艶な姿勢で思索に耽っていた菩薩が煩悩に目覚めたのだ。 そしてそれはラストで愛染をぶった斬る結末の伏線でもある。

愛染明王は愛欲を否定しない神であり、"煩悩即菩提"を表しているとされ、"煩悩即菩提"とは、煩悩を離れて菩提は得られない。 そして逆に菩提なくして煩悩から離れることなはいという意味らしい。 "煩悩"が即イコール"菩薩"というわけではなく、 煩悩があるからこそ菩提を求める心も生まれ、菩提があるからこそ煩悩を見つめることもできる、 というように、二律背反であるのがミソであるのだが、この作品の愛染は坊主を誘惑するのに熱心な煩悩だらけの淫乱にしか見えないのが少しツライ。キャラが少し単純すぎるのだ。

そういえば愛染恭子なんてAV女優がいたけど、あの芸名にはそんな意味が込められていたのであろうか。そういえばこの作品からだいぶ後の『白日夢』で佐藤慶が愛染恭子と本番しているのは偶然か。

一方、高峰の不動明王は"不動"の名の通り「揺るぎなき守護者」であり、内証(内心の決意)を表現したものであるが、この作品の高峰は最初から最後まで太郎の守護者として振る舞い、まったくブレない。ブレるのは男ばかりであり、楓が解説してくれたように太郎は鬼から観世音菩薩になり、僧侶は聖人から俗人になる。

とまあ、後付け解釈すると結構面白いけど、見ている時はたれぱんだみたいにクターっとなった佐藤慶が笑えるぐらいで、他はそれほどでもないのがちと惜しい作品であった。名作と呼ばれる作品はこういった薀蓄なしに楽しめる作品だと思うのだ。

(評価:★3)

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