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[コメント] 11′09″01 セプテンバー11(2002/英=仏=ボスニア・ヘルツェゴビナ=エジプト=イスラエル=メキシコ=日=米)

同時多発テロの犠牲者の、死や悲しみに涙するだけで立ち止まってしまえば、見えてこない地平と、その物語たち。思考停止状態で「正義」を丸呑みにするのではなく、「コギト」を介在させることで持つ普遍性がそこにある。
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3000人にとどこうとする犠牲者。それぞれの生と死を思えば、大きな悲しみや無力感が沸き起こってくる。

しかし、それに続く「対テロ戦争」という名の「正義」によって遂行されている戦争をどう捉えるのか、というのは全く別の位相の話だ。

当事国であるアメリカ(あるいはイスラエル)から見れば、アラブという民族、イスラムという宗教は直接の敵なのだから、国家が、輿論が主戦論になるのは当然だろう。国民が自身の生命と財産を守ってくれる国家を求めるのは自然なことのはずだ。

それでは、第三者である国家や、市民は、あの戦争をどう捉えるべきなのか。

様々な民族、様々な宗教、それぞれの地平から見たとき、それぞれの見方があるのは至極当然なことだ。そして、この映画には11通りの視点と、11通りの価値観が提示されている。

こういった映画を起案し、取りまとめられるところは、さすがにフランス、という気がする。一つのメッセージとして、何よりもまず、「正義」への懐疑を感じることができたことに、一種の安堵を感じることができた。

その「懐疑」には、イギリスのケン・ローチやインドのミラ・ナイールのような直接的なものもあれば、ブルキナファソのイドリッサ・ウェドラオゴのような軽妙な揶揄のようなものもあり、多様性が一層際立っている。

ここで重要なのは、「対テロ戦争」の来し方行き方をネガティブなニュアンスで捉えているからといって、テロ犠牲者の死を軽んじているわけではない、ということにある。 個人として死者を悼む気持ちと、民族あるいは国家として同時多発テロをどう捉えるのかは、全く別なことだからだ。

実際、この映画の製作国のフランスにしても、対テロ対策を主眼に軍事の増強に着手し、航空母艦を増強する計画などを発表したばかりだ。対テロというスタンスでは、「世界の警察」であるアメリカと基本的に同調している(しかし、「空母の増強」というアメリカと利害が正面から対立する問題を、シレッと持ってくるあたりもまたフランスらしいのだけれど)。

一方、軍事的経済的にアメリカと同盟国である日本が、アフガン空爆を支援し、インド洋上で燃料補給をするなどの共同軍事行動を行っているのは、軍事同盟を結んでいる以上当然の帰結だ(その是非を別として)。

しかし、一連のテロの当事国ではない日本国民の中に「対テロ戦争」を肯定的に捉える空気が密なことには、複雑な気持ちになる。

そういったムードの背景には、同時多発テロ以降アメリカ追随色を強めたマスコミの論陣も影響していることだろう。これまではアンチアメリカ色が強かった朝日新聞までが、空爆を容認する社説を出したくらいなのだから、一つの傾向が醸成されたとしても不思議はない。

ニューヨーク在住のアメリカ人に最近聞いた話。

「戦争になったときに自分を守ってくれる国を支持するのは当然だよ。だからアフガン空爆にはイエス。誤爆があっても、投下食料と同じ色の小爆弾をバラまこうとさ。 でも、ニューヨーカーの多くは、なぜあそこまでやられることになったのか、ということも考えてるよ、口に出さなくてもね。イラク攻撃となると……っていう以前に、大半はブッシュ政権自体も支持していない。 アフガンもイラクも、イケイケで支持してるのは例えば中西部あたりの保守層で、そういう連中は、今までニューヨークなんて大嫌いだったくせに「ニューヨークを救え」とか言って星条旗をふってるんだから、いい気なもんだよ」

ニューヨーカーがそういった形で持っている「コギト」を、日本人は持っているだろうか。

思考停止になって翼賛状態になったマスコミの報道。アフガン空爆反対のデモといったアジテーション。そういった賛否を煽り立てる大声ではなく、この映画の持つ静かな囁きのような「懐疑」が、多くの人の胸に届くことを祈るばかりだ。

死者は悼まれなくてはならない。そして、あのテロがなぜ起きたのか。それもまた、考えられななければいけないのだ。

(評価:★4)

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