[コメント] キートンの即席百人芸(1921/米)
見世物としてのキワモノ的要素を配置するイメージフラッシュも映画の巧みな構築によってまとめることができなかったBAD作品
本作冒頭、ヴォードヴィリアンであったキートンがさらに前時代的なミンストレルショーを冠して、見世物的な興をそそるテーマに一貫したイメージを打ち出す猥雑な匂いが際立つ作品である。本作がもつ空気感は、かつてスリーキートンズとして舞台に立ち、観客に見られて笑われることを引き受けてきたバスター・キートンの見世物演芸への郷愁が支配している。少なからず舞台から映画への転身に覚悟を決めたキートンが、当世的なメディアである映画という装置において、自らの芸を本質的に視覚的な表現であることの自覚に根差した作家的声明のようにも思える。しかし、本作はそうした見世物としてのイメージの個々の存在感は誇るものがありながら、映画として組み立てられるべき時空間的デザインに明確なスタイルがなく、残念ながらパッケージとしての完成度は低調といわざるを得ない。そう思えば、初期キートン作品においてはそうしたイメージの強度が噴出して、映画のスタイリッシュなパッケージをきらう傾向がまま見られる。その意味で本作はキートンのシネマツルギーの端緒が伺える作品であるが、いづれにしても生体展示的に集約される見世物はその時点限りで終着である。
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