[コメント] あの手この手(1952/日)
例えばプロローグとエピローグで、森雅之が机に足を上げる、その際、足袋の足裏を映す、というのは、多分、和田夏十がスクリプトに書いた通りじゃないかと推量するのだが、中盤(後半)に、久我美子にも、横臥する彼女の足裏を見せるショットがある。私は、これは撮影現場の創意−演出の仕事−じゃないかと思えて嬉しくなるのだ。それが私の想像通りかどうかは別として、とにかく嬉しくさせてくれる演出だということだ。
あるいは、津村悠子−女中の鈴江の描き方も好きだ。実は、市川映画における女中への演出には良い記憶がなかったので(『三百六十五夜』の一の宮あつ子しかり、『こころ』の奈良岡朋子しかり)、本作の津村に対するタメのある登場の演出や、森やその妻−水戸光子に対してしっかりとコメディリリーフとして絡む扱いは良いものだと思った。
ただし、チャームポイントとして誉める人も多い久我の弾けっぷりに関して云うと、これこそ最初に書いた「やり過ぎのイヤらしさ」の部分だという感覚です。これぞ市川崑らしい分裂気味の人物造型といったところだが、コメディとしては許容範囲かと思う。なんと云っても、本作を名作足らしめているのは森雅之のしっとりとした造型であり、やっぱり彼が主人公だと私は思う。
あと、全編、関西を舞台とする映画だが(主に大阪近郊及び志摩)、基本的に誰一人関西弁をしゃべっていないことに違和感を覚える。これには、複雑な気分になる。実は、例えば、日本映画で、中国を舞台として登場人物全員が中国人の設定、でも皆、日本語をしゃべる、というような映画を私は特に気にせず、この点を批判する意見に対しては、どうせ映画は虚構なのだからいいのだ、と擁護する立場に立っているのです(こういった例はハリウッド映画に多いが同様です)。それが、日本語の方言には敏感に反応するというのは、我ながら一貫性がないと思うのだが、「身近さ」の感覚での偏向がどうしても入ってしまうのだ。それにもうちょっと頑張れば(それはコストをかければ、と同義だが)、方言を使った科白にできるだろうに、という頑張り不足みたいな感覚も残る。逆に云うと、お国言葉を使わないのなら、その地方らしさは、封印した方がいいと思う(観客に よけいなザワザワした感情を起こさせないために)。
#備忘でその他の配役などを記述します。
・森の友人で、かかりつけの医者−伊藤雄之助。その妻は望月優子。森の教え子でキャメラマンをやっている堀雄二。現役学生の秋山は三上哲。
・堀の雑誌社の編集長に近衛敏明。窓にいる近衛への3カットのポン寄りがある。
・水戸が参加する新聞社の座談会に、評論家−荒木忍、小説家−伊達三郎がいる。新聞社の文化部長は原聖四郎。伊達の小説家はよく似合っている。
・森の行きつけのバーのマダムは平井岐代子。
・久我の祖母(水戸の母)は毛利菊枝、久我の父(水戸の兄)は南部彰三。毛利と南部は志摩にいるが、この2人も方言を喋らない。久我にはワンフレーズだけ関西弁の科白がある。「その意気や、ええ調子や」
・森と水戸の家周辺のロケ地は奈良のあやめ池らしい。阿倍野(近鉄百貨店前)、生駒山(生駒ケーブル)の風景が見られる。志摩のシーンでは、志摩観光ホテルとのタイアップがよく分かる。
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