[コメント] 愛は静けさの中に(1986/米)
とても良いオープニングだと思う。着任先は聾学校。校長は、フィリップ・ボスコ。ハートは聾者に発話を教える教師だ。マトリンは、学校の卒業生だが掃除婦として雇われている。気難しい女性。食堂での昼食も一人で摂る様子が描かれる。
ハートは、勿論マトリンの容姿にも魅かれたのだろうが、それ以上に、とても頭が良いのだから、もっと別の仕事ができるはずだ、という気持ちからお節介を焼き始めたのだろう。彼が受け持つクラスの中には、進んで発話を上達しようとする生徒と、決して発話しない生徒がいるけれど、マトリンも決して声を出さない人なのだ。ハートは、発話するようになれば、良い仕事につける可能性が広がると考えているということだと思う。私にとって、本作は、ハートとマトリンの恋の行方以上に、マトリンは喋るのか、さらに、今後も声を出す訓練を続ける気持ちになるのか、という事柄が、見進めるテーマ(見ながらずっと気になる事柄)となった。
ということではあるが、ちょっとイケズして、この事柄(マトリンの発話)に関しては、こゝでは書かないでおこう(ネタバレでもないかも知れないが)。ハートとマトリンの恋の行方という部分では、二人の恋が燃え上がる契機についても、ラストの収束についても、いい加減な描き方だと感じられた。このあたりはマトリンの心持ちをもう少しきめ細かく描くべきだろう。しかし、彼女に、夜、素っ裸になってプールで泳ぐ習慣があり、それをいつ知ったのか、ハートも素っ裸で飛び込んで、心が通うという設定と演出は、映画としては悪くないだろう。マトリンの胸が最後まで露わにならないのは残念だが。
あと、手話の観客への伝え方に関して、字幕を使わず、ほとんどハートが声に出して通訳する、という見せ方は、さすがにまどろっこしい。納得できるシーンもあるが、時間がかかってしまい、停滞感につながっているシーンが多い。これには無理を感じる。尚、ハートのクラスの中の男子一人は最後まで声を出さない。この描き方については、私は好感を持つ。
さて、こゝからは映画の話とは関係無くなってしまうが、本作でも、字幕では「deaf」を「聾唖」と訳している。やっぱり私は気になる。今までも、何度か書いたけれど、私には近親者に聾者(女性)がおり、彼女が唖者ではないのと同じように、本作のマトリンも生徒たちも唖者とは思えないからだ。いや、日本語の辞書で、耳の聞こえない人のことを「聾唖者」としている場合があるのは認識しているが、普通に「聾者」という言葉があるのだから、それでいいではないか、と思うのだが。
それと、私の近親者の聾者は、幼児期より厳しい訓練を受け、かなり上手に喋ることができるが(それでも、慣れない人には聞き取りにくい)、上手く喋ることができる聾者でも、極力発話しない、というポリシーの人も多い、と私は認識している。聴者に対する場合、手話や筆談で押し通すメリットもあるのだ。逆立ちをしている時に手話が使えない、というデメリットはあるけれど。ちなみに、私の近親者の聾者は、マトリンと同じぐらい美人です(彼女がこれを読むかも知れないので書いているのではありませんよ、決して)。
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