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[コメント] お琴と佐助(1961/日)

山本富士子本郷功次郎版。「春琴抄」の映画化作品で過去に見たのは、田中絹代高田浩吉版(1935年)と山口百恵三浦友和版(1976年)の二本だけだが、比べると、本作のお琴と佐助が、一番、男女の関係に見える部分があると思った。
ゑぎ

 例えば、中盤の地震のシーン。1976年版と比べると、案外揺れの小さい描き方なのだが、佐助だけがお琴のところへ助けに向かい、二人で抱き合う。明らかに、この後、交渉があったという描き方なのだ。後半、有馬から帰って来たお琴が、春琴(師匠)として淀屋橋で独立した後の場面でも、佐助に手をさすらせ、足も冷たいと云って、足もさすらせる、といったシーン。さらに、障子を閉めた後、二人の笑い声が聞こえる、というのはどうだろう。こゝも、はっきり、交渉を表現しているように思う。

 という感じで、本作のお琴−山本富士子も、基本は癇の強い、厳しい主人、あるいは師匠だが、佐助に甘えるところも僅かだがあり、実は、そこがたまらないところでもあるのだ。映画的には、二人が主従として、また師弟として極めて厳格に描かれている映画の方が、逆に倒錯性が高い、という感覚も持つのだが。 そういう意味では、前半の、山本がチリチリトントンなどと擬音で教える場面、佐助を厳しく仕込む描写を延々と繰り返す場面はたまらない。竹の棒で叩かれて血が出る佐助。それを佐助は喜んで受け入れる。こゝは完全に倒錯的だろう。もうニヤニヤが止まらなくなってしまった。あと、お琴に岡惚れする美濃屋のぼんぼん、利太郎は、川崎敬三がやっているが、川崎のイヤらしさの描写は足りないと思った。また、その腰巾着の潮万太郎もあまり目立たない。

 次に画面で目に留まった部分、特にシネスコサイズの活用の部分を記述する。例えば、前半で佐助が夜中に三味線をこっそり練習する場面は、二階の屋根にある物干し場だが、稽古する本郷を画面右に配置し、画面左から、お琴の姉の長谷川季子小野道子)を登場させる演出。また、有馬温泉のシーンでは、川岸に置いたカメラから、すごい仰角で、橋を渡るお琴と母−賀原夏子をとらえたショットがある。あるいは、川崎敬三の天下茶屋の別荘での梅見のシーンでは、シネスコ画面の左右を建物や木の幹でマスキングする。この処理は際立っている。

 そしてラストの展開は、本作も原作通りだが、あらためて、ルッキズムのイヤらしさ(お琴の見た目の美しさの強調)を、倒錯性が吹っ飛ばす展開だと感じた。しかし、美しい山本がずっと目をつぶったまゝ(瞳を見ることができない)というのは、画面を見る快楽を損なう面と、そのじれったさがいい、という両面があるだろう。他のお琴役の女優と比べてもそう思う。

#備忘でその他の配役等を記述します。

・お琴の母親は賀原だが、父親は花布辰男。鵙(もず)屋の主人。佐助の父親は長浜藤夫。三代続けて、鵙屋にお世話になったと云う。鵙屋の番頭は中条静夫。女中には町田博子橘公子田中三津子ら。町田は有馬温泉にも同行している。橘と田中は春琴独立後の家でも女中。

・お琴の師匠、春松検校は中村伸郎。待合室に春本富士夫がいる。娘の顔をバチで叩いたと文句を云いに来るヤクザ者は見明凡太朗

・天下茶屋の別荘での梅見シーンに出て来る芸者の中に、市田ひろみがいる。佐助が琴を教える顔を見て、笑いが止まらない娘の一人は小笠原まり子

(評価:★3)

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