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[コメント] 王立宇宙軍 オネアミスの翼(1987/日)

「お前には何が見える?」「・・・女のケツ。」

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







中学生の頃以来、廉価版DVDにて再見した際の感想。

久し振りに観たが、面白かった。なんと言うか、主人公のシロツグにせよリイクニにせよマナにせよ、素朴に人として好きだと思えるし、出来ればそれなりにでも幸せになって欲しいとも思う(とくにリイクニやマナには)。むしろ中学生の頃に観た時よりも、今の方が面白いと思えるような気もするが、それはシロツグやリイクニ、マナの人となりが、中学生の頃よりも分かるように思えるからかも知れない。現実の社会は、シロツグやリイクニや、あるいはマナのような青年や少女や子供達を、そう幸せにはしてくれない。だからこそ、偶さか星の世界に到達したシロツグは、ただ静かに祈るのだ。

それで、観終わってからなんとなくネットで調べてみて初めて知ったことがある。曰く、本作の制作を応援した宮崎駿は完成した作品への一定の理解を示しながらもそこに年配者や先達の苦労が描かれていないことを批判したとか、曰く、ホリエモンが本作のファンらしいとか、曰く、本作の初めの副題は「リイクニの翼」だったとか。どれも面白い話だが、まず宮崎駿の話は、つまり若い人間の生きられた歴史への想像力の不足についての批判で、しかし若い人間からすれば、自分達を取り巻く世間の大人達の有象無象の中に話の通じる相手がそういるとも思えないという反論になるのだろう。またホリエモンの話は、恐らく単純にそんな若い人間だけで夢を実現しているかの如きドラマに素直に共感しているだけなのだろう。しかし何より個人的に素敵だと思えるのは、やはり本作のタイトルは実は「リイクニの翼」だったという話だ。宮崎駿が、美少女が世界の美しさを象徴していてくれればこそ少年がそれを救うことは世界を救うことになると力説していた、その精神がやはりそこでも暗黙の内に生きているのだ。だからこそ、だからこそ出来れば幸せになって欲しいのだ。リイクニにも、マナにも、世界の全ての恵まれない報われない子供達にも、…というわけだ。(ちなみに、多分、ホリエモンには残念ながらそこまでの感覚はないんだろうなという気はしてしまう。)現実は容易に救い難いという認識があるからこそ、(一見無力にも思える)「祈り」も生まれる。リイクニにも、マナにも、幸せになって欲しいよ、本当に(…と思わせてくれる本作は、だから今回改めて観て好きになれた)。

それにしても、リイクニがいい。無論キャラ萌えとかそういうことじゃなく、ああいう危ういバランスでなんとか自分を支えていそうな娘は、見ていてなんだか切ない。シロツグ君も、好きだという感情だけではどうにもならない近づき難い危うさがあることを分かっているから敢えて近づかないのだし、またそれでいてやはり好きだから、去ることもなくその傍らに居続ける。そしてそれでも自らに出来ることとして、その子の為に宇宙に飛ぶのだ…。それでなんになるかって? …なんにもならないかも知れないが、しかしそれでもそれは、その子の為なのだ。そういう仕方でしか報われない何かも、この世にはある。またマナの笑顔も忘れ難い。つまらない諍いを見てさえ泣き出すその子の過敏な心もまた忘れ難い。その子の心は過敏であるからこそ、自らを守る為に自らを閉ざすのだ。そしてそれが、束の間にせよシロツグ君の前には開かれた。しかしシロツグ君はべつに善意の人ではない。むしろ善意ならぬ好意の人なのだ。だからこそ…ということもあったかも知れない。リイクニだって、多分あの後もシロツグ君のことを無視は出来ない筈なのだ。自分に好意を抱いてくる若い男を、幸せでもなさそうな若い娘が無視し続けるなどということは、恐らくそう出来ることではない。ともあれしかし、その先に「幸せ」と呼べる何かがあるのかないのかは、…神のみぞ知る事柄ではある。

神のみぞ知る。そう、リイクニは人よりも神を信じている。ここでふと考えなくもない。たとえば宇宙から帰還したシロツグとリイクニに、再び交流は有り得るのかどうか。自分としては、実は最初に観た頃(中学生の頃)から、ふたりの仲は終わったのだろうと感じはしたのだ。恐らくふたりは、あの後も地球上のオネアミスという国で生きていくのだろうが、しかし交流することはもうないのだろう、と。たとえばあのふたりがあの後も交流を重ねて、まさか結婚しちゃうなんてことは? …あり得ないと思う。もしそんなことになるとすれば、リイクニは「神の物語」を、シロツグは「星の世界」を捨て去る(忘れ去る)ことにしかならないからだ。世界の真実は「幸せ」を肯定しない。それでもふたりにとって「幸せ」があるとするなら、それは「神の物語」や「星の世界」を介した、ある意味では世間的には「不幸せ」と見えるような反転した倒錯的なものになるかも知れない。猥雑な世間に属する「幸せ」と、「神の物語」や「星の世界」に属する「幸せ」と、どちらが虚偽で欺瞞であるなどと誰が言えるのか。そんなものは、どちらか一方に立てばもう一方は虚偽にも欺瞞にも見えるだけのことだ。リイクニが信じた「神の物語」も、シロツグが見た「星の世界」も、それは世界の真実かも知れない。しかしそれと同時に、そんな真実を忘れて人間達は地上で徒に蠢きまわる。それは矛盾なのだが、けれども本当の意味で大人になるというのは、そんな矛盾を心に内包しながら人間として生きていくことでしかない。

リイクニとシロツグは、殊更地上で交流せずとも、互いに通じ合う「神の物語」と「星の世界」を介することによって、既に通じ合っているのだ。むしろ地上で交流することは、恐らくふたりに世間に属する意味での人並みな「幸せ」を齎しはするかも知れないが、しかしそれは、やはりかつてその心に信じて、その目に見たものを忘れ去ることでしかない。それらの記憶が、言葉として「幸せ」なふたりの口の端にその後ものぼることはあっても、最早そこからはかつての切実な魂は失われているだろう。やはり自分にはふたりの「その後」はないのではないかという気がしてならない。シロツグは「神の物語」を語るリイクニに、リイクニは「星の世界」を見るシロツグにこそ惹かれたのだから。それは初めはあるいは表向きの口実に過ぎなかったとしても、いったん本当にそれを信じて、見てしまった者にとっては、口実に過ぎないものではなくなってしまうだろう…。劇中のある場面で、歴史を描いた壁画を前に、上官の「お前には何が見える?」という問い掛けに対して、シロツグは「女のケツ」と半ばふざけたように答える。しかし、敢えて言えば、それでいいのだ。それが嘘偽りのない情熱であり得るならば。つまり「女のケツ」を追い掛け続けることで、その果てに人類の歴史を見てしまうことだって、人間の経験にはあり得るのだ。そして実際、リイクニの真摯さに打たれて始まったシロツグの宇宙への情熱とそこから生まれた経験は、まさにそういった類の情熱と経験になりおおせたのだから。

(評価:★4)

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