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[コメント] さゞなみ(2002/日)

無意識の暗がりとその向こう側。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







自主映画出身の監督が撮りたいものを撮っているのだなと思える、そういう映画だった。それはおそらくは監督が撮りたいようなかたちできちんと「作品」にはなっているように思え、こういう映画が存在しうる現在の日本の映画の状況は、べつに悪いものではないのではないか、とも思えた。というのも、こんな視点でしか切り取ることのできない風景というものがそこにはあるように思われたから。これと言って起伏豊かな筋書きが用意されているわけでもない静かな映画。ほとんど全篇が固定ショット。観た後から、写真家がキャメラマンを担当し写真美術館で上映されることが決まっていた映画と聞いて、なるほどと納得する。

見ていて気づくのは、人物がキャメラに背中を向けている、あるいは二人で並んだり向かい合ったりして佇んでいるようなショットが多いこと。その背景となるのは穏やかでぼんやりとした草木の緑や空の曖昧な水色、あるいはしがない地方都市の人気も疎らな街や郊外の住宅醸成地。それは端的に「充たされた空虚」とでも言えばいいのかもしれない。たとえば篇中、薄い雲に蓋われた空とその下に開けている街中の雑草の生えた空き地の構図がある。見たところ画面の中で空が6、地が4の割合で、その4割を占める地の上で豆粒のようなサイズの数人の男達がトヨエツ(と思われる男)を殴る蹴るする、そのロングショットの状景。世界の内の4割に過ぎない地の中で更に小さな人間達が鬩ぎあっている、その朴訥とした空虚。

「背景」と言うにせよ「状景」と言うにせよ、これはそんな光景がそのまま映し出されていく映画であったりする。あるいは静止するキャメラの構図の中の更なる枠組みとしての暗い部屋の、小さな窓やトンネルの出入り口の中に(向こうに)見える光景(草木の緑や空の水色)。それは「無意識の暗がりとその向こう側」の構図とでも言えばいいだろうか。松坂慶子演じる母親に女としてのいいところを全部預けて生まれてきてしまったかのような娘・唯野未歩子は、静かにそこに佇み続け待ち続けるかのような光景の中で、おそらくは居るだけで抑圧的な母親の存在に抗うかのように、静かに内なる炎を見つめる、燃やす。そんな娘の内なる変化を知ることもなく、自然な感情として娘を気遣う素振りを見せる母親に、「気にしないで」と一言だけ返すその娘のいじらしさ。

やがて娘はその暗がり(自分の生まれ育った母の家)の中からついっと出て行く。唐突なラストシーン。最後の最後にパッと開いたドアから瞬間差し込む明るい光は娘の“これから”を明示しているのかもしれない。…と、そんな感じの映画。所謂「ミニマリズム」というやつかも知らんけど。

ところで和歌山は知らないが、米沢には冬に一度だけ行ったことがある。その時は豪雪に埋もれていたけれど、確かにあそこはこの映画に映っているような閑散とした雰囲気のある街だったと記憶している。何年か前の夏の盛りに行った同じく山形は酒田の商店街もやはりあんな感じだったから、今現在、日本各地に散在するあのくらいの規模の地方都市と言うのはみんなああしたものなのかもしれない。そこに物語はあるのか。それでもそこに物語は有り得る、ということを、この映画は示したかったのだろうか。タイトルの「さゞなみ」は、漢字だと「小波」とか「細波」、あるいは「漣」なんて書くらしい。気障に言えば、それはさゞなみのように響き合い、やがて人と人との物語が大きく広がる始める(かもしれない)瞬間、その予兆を映し出そうとする映画、ということなのか?

しかしたとえそうだとしても、それは今更何の為につくられたのだろうか。もし表現上のミニマリズムに拘泥しただけなのであったなら、それは成功しているが、成功しているがゆえに空しくもあるのではないか? その空しさは決して暗いものではない、むしろ明るささえあるのだけれど、暗くはないその空しさは肯定していいものなのかどうか。その空しさのある意味で能天気な明るさは、表現上のミニマリズムによって都合よく理想化された光景と物語から帰結したものでしかないように思えるから。

(評価:★3)

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