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[コメント] 東京日和(1997/日)

次回作に期待したが、次が出ない・・・。<追記:出たようだ
しど

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







これは予告編が良かったし、原作の荒木経惟「東京日和」も有名だから、 かなり期待して見たんだけど・・・・・何がしたかったのだろう、と思ってしまいました。 映画のストーリーを文章の流れとともに結末まで書くので、まだ見てない人は読まない方がいいです。

今回は私の「つまらないと思う映画」について書きながら、この作品を検証します。 映画の見方は個人的な趣味なので好き嫌いがあります。 ただ、なぜ好きなのか、嫌いなのか、については、自分でもよくわかりません。 見た直後や見ている最中にそう思ってしまうだけですから。 ただし、「好きと嫌い」は表裏一体ですから、嫌いな映画っていうのは、案外、「見れてしまう」こともあります。 そして、好き嫌いとは離れた価値観に「つまらない」があると思うのです。

「つまらないと思う映画」その1。 「主役が監督自身」。 私は学生時代、映画研究会に属してましたので、学生が作る「つまらない映画」を無数に見ています。 つまらない学生映画は大抵、「オナニー映画」と呼ばれます。つまり「ひとりよがりな映画」です。 そして、それらには、共通する特徴が幾つかあったのです。 最も当てはまるのが監督自身が主演をしている作品です。 もちろん、面白い作品もありました。しかし、「何じゃこりゃ」映画の多くがこのパターンで、 これで、女優が監督の彼女だったりすると、見ているのが苦痛だったりします。 映画制作において、自分や狭い世界の住人しか出せない映画とは、 それだけで、「監督の世界観の狭さ」を象徴してしまいます。 または、「出たがり監督の自意識過剰」だったりもします。 「狭い世界観での自意識過剰」は、文字だけ見ても嫌悪を感じます。 この価値観が私の中に強くインプットされているので、 監督兼役者の映画は、有名な監督作品でもかなり警戒してしまいます。

「つまらないと思う映画」その2。 「熱い恋愛映画」。 個人の間でも恋愛というのは物語に溢れています。 だからこそ、一つ飛びぬけた特徴があったり、 二人の関係を阻害する背景などが盛り込まれることで面白くなります。 私はなぜか、ベースとテーマが恋愛の映画が駄目なんです。 女性には人気の高い「ベティブルー」も駄目でした。 「ベティブルー」は、狂気の愛、といった感じでしょうか。 娼婦と小説家志望の男の恋愛。 お互いに支え合って生きる二人。強すぎる愛情がいつしか女に狂気をもたらす。 といった感じだったと思いますが、どうも、その辺りの恋愛に関する情緒を 私は汲み取れないようです。 なので、同様に「レオン」や「ニキータ」もつまらないと思ってます。

「つまらないと思う映画」その3。 「話が単調」。 漫画や小説にしても流れとして「起承転結」はあるし、 映画にしてもストーリーがある限りは「起承転結」を持つべきであろうというのが、 私が映画を見る視点(point of view)です。 なので、ストーリー展開を敢えて避ける「詩的作品」も苦手です。 タルコフスキーの「サクリファイス」のようなのは、 はっきりと「つまらない」と書きます。 基本的に、監督が主演していようが恋愛物語だろうが、 ストーリー展開が良ければ、つまらない作品とは思わないので、 これがむしろ重要な要素かとも思います。 ただ、本来、「その1」となるようなこの条件が「その3」になるのは、 これだけは最後まで見ないと窺い知れない要素だからです。 「あ、監督主演だ・・・オナニー映画かな・・・え?相手役は彼女のラブラブ映画?・・・まあ、我慢して見てみるか・・・見なきゃ良かった・・・」 なんて経過を辿ります。

以上、「私がつまらないと思う映画」の特徴を3つ挙げました。 「東京日和」は見事に3つとも該当してしまってますので一つずつ説明します。

その1に関しては、竹中作品の特徴でもありますから、まず警戒します。 さらに驚くのは、役者ではない有名人をたくさん脇役に起用しています。 これってなんでなんでしょう。原作のアラーキーがゲストで出てるのは構いません。 周防正行や利重剛、中島みゆき、柳美里なども出ている。 これって単なる交遊関係で出てるだけなのでは・・・・などと思うのです。 そもそも知合い位しかノーギャラで出る人は少ない学生映画にありがちな要素ですが、 メジャー映画でこんなことするのはなぜ? こういった理由でさらにヒイテしまったのです。

その2は仕方無いですね。

さて、その3です。 まあ、その1その2は私の個人的な趣味なので、実はどーでもいーのですが、 この作品の欠点が、ここにこそ現れてます。 むしろ、「単調」では無いのですが、複雑なのか出鱈目なのか謎なのか、 繋がらない流れと断片が多すぎて、ストーリー展開を全く読めませんでした。 「東京日和」は、過去の二人の生活と現在の一人の生活とが時間軸として並んでいますが、 現在の描写は全体の1割にも満たない。 ですから、過去の二人というのが映画のメインとなっています。 それなら、陽子との出会いから別れまでという話かと思えばそうでもありません。 「起」の部分は、すでに結婚している陽子夫人が出てきます。 そこで強調されるのは、性格の弱さです。 来訪者の名前を言い間違えていたことを指摘されて動揺してしまい、 それがモトで、陽子は三日間家出をしてしまう。 。

帰ってくる迄の間、家出をした陽子を捜す為に、 荒木が陽子の会社を訪問することになり、 会社での陽子(荒木の知らない陽子)という流れができます。 陽子がイタリア語(?)に堪能ながら小さな会社で孤立していることを見せたいのか。 そりゃ、三日間も嘘をついて休んでいれば立場も悪くなるだろう。 それに、その三日間に何をしていたのか、大きな部分なのに明かされていない。 子供を連れ帰ることで、子供との関係の流れもできます。 子供からはなぜか「おばあちゃん」と呼ばれている。 社会性のない内気な子供と陽子を重ねているのだろうか。 この流れは、街で出会った子供を陽子が連れまわすという事件につながる。 でも、それがどういう流れに繋がったのかがわからない。 噛み合わない断片を繋ぐものは、「陽子の狂気」にしかないと思う。

映画全体で陽子夫人は、精神に破綻を来たしているような描写や、 耳鳴りがするようすなど、身体にも異変が表れてくる過程が描かれていますから、 「狂気」を原因としたそれらが死をもたらすのかと思うのが当然だと思いますが、 「狂気」と「死」の結末は結びつきません。 結局、「ちょっと風変わりな陽子夫人に振り回される荒木」にしか見えません。 振り回される振幅が激しくなるにつれて、死が忍び寄ってくるのならわかります。 それがクライマックスに繋がれば人を惹きつけるからです。 だけど、最後に「陽子は子宮癌で死んだ」なんて突然言われても、「?」となってしまう。 「じゃあ、あの狂気や体の不具合はなんだったの?」だし、 「え?もしかして、あれって癌の症状だったの?嘘!」でしょう。

映画の終わりの方で突然、夫人はトラックにぶつかるが、 包帯だらけながら元気な姿が出てくるのは、必要あったの? 途中で登場する浅野忠信扮する読書好きな青年とのカラミも、 荒木に嫉妬心を抱かせただけなの? 流れが読めない。というより、流れが流れになっていないのです。

これらが大きな原因ですが、「東京日和」に関しては、まだ理由がある。 これまで竹中の映画はユーモアに溢れていたから、それを期待してもおかしくないであろう。 今回は無い。竹中は方向転換を図ったのだろうか。

これは、竹中の作品としては、「無能の人」「119」に続き第三作目です。 竹中の特徴として、自分の好きな世界を映画に反映させる、というのが強いと思います。 まあ、映画は監督のモノだし、大抵はそうかもしれないけれども、 監督が主演ということで、映画自体が自分の世界の延長、という意味合いも強くなります。 「無能の人」はつげ義春原作です。音楽はGONTITI。出演が風吹ジュン、マルセ太郎など。 これらは全て、竹中が好きな世界なのでしょう。 ただし、一作目だから、自分の世界を押し出すことは仕方ない。 で、映画自体も面白かったですし。 「119」は竹中のオリジナルの話ながら、音楽は忌野清志郎で出演も有名人が大勢出ています。 二作目で力の抜けた、しかし、小津映画の技法が色濃く出ていた作品でした。 さて、「東京日和」。三作目は実力が表れるとされています。 北野武は「あの夏いちばん静かな海」で、自分が出演しなかったり、 主役のセリフがないなど、新しいことをしていました。 竹中は何をしたのか・・・・・ 全然わかりません。

原作の「東京日和」は写真家の巨匠アラーキーによる荒木夫妻の物語です。 原作を恥ずかしながら見てないのでなんとも言えないのですが、 そこには、死んでしまった妻への強い愛情と東京という都市を見つめる、 アラーキーの思いが交じり合っているものと想像されます (想像だけで言っきっちゃっていいのだろうか・・・)。 「陽子夫人の死に顔」の写真を見たことがあるので、もしかしたら、 「東京日和」に掲載されているのかもしれません。 蛇足ですが、篠山紀信と荒木との不仲の原因が、この「死に顔」の公表にあったらしいのですが、 やはりここに荒木の強い思いが表れているのだと思います。 映画では、「死に顔」の映像はありません。 アラーキーの写真が持つ躍動感もありません。 映像自体が陳腐です。 何しろ、ほとんどがセット撮影のような雰囲気ですし、 外の映像には、なぜかセピア色のフィルターがかかっています (荒木の写真にモノクロはあってもセピアはなかったと思います)。 つまり、原作を殺しているような感じすらするのです。 竹中は、荒木の写真や文章に全て目を通すことで、 そうした荒木からの影響を排し、自分なりに荒木の世界を作ることにしたらしい。 そして荒木本人からは「これが私の言いたかった世界だ」と誉められたらしいのだ。 これって、荒木の為だけに作ったってことだろうか。 いや、むしろ、竹中自身のオナニー映画なのでは?と思い始めると、 「つまらないと思う映画」の特徴、その1が強調されてしまうのです。 自分の世界を作り出した映画の中で、尊敬する主役を自分で演じ、 周りには自分の友達を配す。竹中ワールドなんですね、この映画。 そして、結論。 これってつまんない学生映画の特徴そのままだったりするのでした。 あーあ。

追記:

石井隆に映画を撮らせたり、竹中の貢献度は否定できない。 竹中の映画好きは有名だし、大学時代に自主映画を作ってもいたらしいが、 こういう映画を見ると、本人の力量の無さかとも思ってしまう。 荒木で有名なのはヌードと街の写真なはず。 それらについて何も語られていないのはやはり落ち度だと思うけどな。 電通に勤めていた時に、スタジオを勝手に使ってヌード写真を撮りまくっていたエピソードとかさ。 竹中って純真な子供の世界が好きなんだろうな。 まあ、なぜか森田芳光監督も出演していて、あの歪んだ顔がしゃべるのと、 甲高い声を初めて聞いたのは、ファンとして嬉しかったけど(笑)(98.10.22)

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