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[コメント] H story(2001/日)

悪い意味で、映画の限界に行ってしまった映画。辛うじて映画たり得る境界から滑り落ちかけた様を映画として提示するという傲慢。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







マルグリット・デュラスの原作を、彼女自身の脚色で、アラン・レネ監督が映画化した、1959年の映画『二十四時間の情事』(原題は「ヒロシマ、私の恋人」)。そのリメイクの制作過程をドキュメントした映画が、この『H story』。「H」は「Hiroshima」の頭文字だろう。虚構としてのドラマと、その制作過程での人間模様のドキュメントが相互浸透し合う演出(?と言うよりは、敢えて「演出」をしないという姿勢)と編集方法は、諏訪監督が最初から取り組み続けてきたもの。今回も、『2/デュオ』や『M/OTHER』と同じく、男女の心の葛藤を扱った作品だが、更にそこに、異国の人間同士が、戦争という、互いに相手の立場を最も理解し難いように思える出来事について、果たしてその記憶を共有し合えるか、という問いが加わってくる。

だが、予想に反して、この作品で露わになるのは、国と国の隔たりよりも、時間的な隔たりである。主演女優のベアトリス・ダルは、敢えてこの時代に、過去の映画をそのままリメイクする事の意味に迷い、脚本の中の「忘れる事が怖い」という台詞について、何が怖いのか、その感情が読み取れない、と悩む。そして、言葉の通じない異国での孤独。

まず、「なぜ、敢えてリメイクを?」という疑問は、出演者の一人でもある町田康もまた、監督との対談の中で触れている。町田が「これは誰もが普通に、まず最初に感じる疑問」だと言っている通り、これは観客にとっても、終始、大きな疑問符として頭の中を占める事。監督は、町田やベアトリスの疑問に対して、「戦争体験というものが、身体的に分からない、という事、その事自体を体験したかった」だとか、「同じ脚本を用いても、今の私たちの身体を通す事で、それは新しい作品になる」などと答えてはいるが、彼自身にとっても、確たる答えのようなものは無い様子だ。

予め自分の中で回答が用意されたものを撮るのではなく、撮るという行為そのものを、一つの実験として試してみる、という意図は理解できるし、少なくとも、僕が観た『2/デュオ』では、ドラマとしての緊張度と、ドキュメンタリーとしての、切れば血が出るような生々しさとが、相乗効果を生んでいた。しかし、今回は、監督はあまりにも何も考えていなさ過ぎて、ベアトリスは独り取り残され、映画全体が彼女独りに圧し掛かり、結局、彼女と共に映画自体も破綻してしまう。監督は、演出家として自分の仕事を一切せず、無能なインタビュアーとしての立場から一歩も出ない。ベアトリスが台詞について真剣に悩んでいても、監督は殆ど、「もう一度やれますか?」、「もう一回やってみましょう」などと機械的に繰り返すばかり。そして、ベアトリスの相手役である馬野裕朗も、彼女や監督に対して、突っ込んだアプローチもせず、傍観者のままでいる。むしろ、チョイ役でしかない筈の町田康が、言葉の通じないベアトリスに、色々と気を遣う様子を見せる。たが、それも空振りに終わる。

終盤に至っては遂に、台詞も会話も途切れがちになり、言葉は瓦礫のように無に等しくなる。ディスコミュニケーションの果てに映画が崩壊し去った後、ベアトリスと町田が街を彷徨する姿は、失望と疲労と、虚脱まじりの解放感を漂わせる。それはまるで、『二十四時間の情事』の男女の姿を逆照射し、その中の二人にすら、会話らしい会話など、初めから無かったかのようにさえ思わせる。台詞から、その心を読み取る事の出来なかったベアトリスと、彼女の周囲に瓦礫のように虚しく積み重ねられた日本語の数々。そんな感情の風景は、かつての広島の、原爆の光に照らされて廃墟と化した光景と、いつしか二重映しのようになっていく。そして、廃墟の煉瓦の隙間から伸びる緑の草が目に映えるように、言葉を失った人間たちの姿は、どこか絶望的な美しさを感じさせるのだ。

しかしもはや、これは「作品」と呼べるような代物ではない。監督は殆ど、何もしていないに等しいのだから。或いは、こうした結末も全て、最初から漠然と予測していたのではないかとも思えなくはない。だが、仮にそうだとしたら、実験としてのドキュメンタリー、という作品の在り様を、最初から監督自身が裏切っていた事になってしまうだろう。失敗した映画の、単なるメイキング・フィルムにしか見えないこの作品にある美しさは、喩えて言えば、腕の悪いガラス職人が地面に叩きつけたガラスの破片が、偶然美しかった、といった話に過ぎないのではないのか。この作品の企画自体、『二十四時間の情事』のヒロインの、広島に映画を撮りに来た女優、という設定から単純に、メタ映画としての可能性を、大した考えも見込みもなく期待しただけなのではないか、と思えてくる。

序盤、町田との対談で、「なぜ、今、四十年前のものを一言一句そのまま再現するのか、と、そこに行き着く」と指摘され、監督は「ヘヴィーな問い」だと答えるが、それに対して自分なりの考えを、全く何も発し得ないまま、音楽が流れてそのまま町田(と、ベアトリス、更には観客)の疑問もまた、何となく流されてしまう。この場面では思わず、失笑してしまった。答えが無い事に敢えて取り組む、という姿勢は素晴らしいのだが、この諏訪監督という人は、自分の頭で何かを考えるという素振りすら見せない人。全ては成り行き任せ、被写体任せであり、失敗も破綻も想定内なので、何が起こっても、何も起こらなくても、平然と撮り続ける事しかしない。

最終的に言葉が失われるこの映画は、実は最初から、何らかの言葉を発しようという努力も、自分なりの言葉を編み上げようとする思考も、何も無いのである。そして、妙に作為を感じさせるドキュメンタリー部分のいやらしさ。俳優たちはまるで、監督のガラスケースの中のモルモットのように扱われていて、ただ一方的に状況に放り込まれ、その反応と行動を観察、記録されるだけの存在に還元されている。この映画の中で見せる監督の、ありとあらゆる姿勢が、糞だ。

この映画を、見るに耐えるものにしているのは、ひとえに撮影監督のカロリーヌ・シャンプティエの仕事。美術館のシーンでの、ミニマムな映像美や、カフェの暗闇の中に、濃い単色の空間を生む照明など、画面の美しさを挙げればキリが無い。また、ベアトリス・ダルは、最初は綺麗な外人さんといった風情だが、考えながらペンを咥える仕草や、半ば独り言のように町田に話し掛けながら歩く姿など、静かな外面の内での、激しい感情の動きを感じさせる佇まい、存在感に魅入られる。この映画は、そんな彼女を苛めて出来た作品と言ってもいい内容であり、見ていて気の毒。彼女の代表作『ベティ・ブルー』は、この映画を観た時にはまだ未見だったのだけど、もし先にそちらを観ていたとしたら、女優としての仕事をさせてもらえていない、ただその素の存在を観察される事しか許されない彼女に、同情を禁じ得なかったかも知れない。

仮に、万が一、この破綻の様そのものが演技・演出であったとしたら、「ヒロシマ」を描く事が目的ではなく、破綻そのものが主題であり、ヒロシマはその素材に過ぎなかった事になる。それはヒロシマへの裏切りであるだろうし、或る意味、映画に対する裏切りだろう。いずれにせよ、崩壊した映画、無意味さへと落ちかけたイメージの連なり、として観るしかない。

(評価:★2)

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