[コメント] 荒野のガンマン(1961/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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既にこの時代西部劇は斜陽に入っており、その中で西部劇の監督となったペキンパー。彼自身の思いはどうだったか分からぬが、ペキンパーの創造するヒーローの多くは、これまでの西部劇のヒーローとは完全に一線を画している。
初監督作からしてこのような弱いヒーローを作り出してしまい、主人公はヒーローらしからぬとして、当時の西部劇ファンには悪評を受けたのだが、それでもこれはペキンパー製西部劇の原点として記憶に止めるべき作品だろう。
物語は恐るべき偶然の連発で、大変人を食った上に、主人公のイエローレッグの優柔不断さが、爽快さをことごとくはぎ取ってしまっている。
しかし、それが悪いか?と言うと、決してそんなことはない。むしろこの優柔不断で弱いイエローレッグの性格こそがリアルに愛すべき、人間的な存在であると思えるのだから。
彼は復讐を胸に抱き、5年もの間、敵を探し回っていた。だから冒頭でタークと出会った時にそのまま殺してしまえば物語は終わっていたわけである。それ以前に冒頭のシーンで何もしなければ、自動的に復讐は終わっていた。
しかし、敢えてここでイエローレッグは復讐を思いとどまる。ここには彼の複雑な思いが込められていたのではないか?
例えば、五年間も苦労してきたんだ。その苦労をタークに思い知らせてから、かつて自分がやられたようにタークの頭の皮を剥ぎ取ってやる。という思いもそうだっただろうし、落ちぶれてあまりに情けない存在になってしまったタークに復讐してもなんの意味もないと思ったのかもしれない。
だから、タークには成功と仲間をプレゼントしておき、その後、それを一気に取り去ってしまうこと。これが彼なりの復讐となっていたようにも思える。確かに歪んでるけど、復讐を晴らす相手は、情けなくあってはいけない。という美学がそこにはあったのかもしれない。又一方、五年間の副手の旅は確かに苦労の連続だっただろうが、その五年間は彼の復讐心を変質させてしまったのかもしれない。いざ敵を目の前にした時、殺すことを忍びなく思ってしまったのかもしれない。それと、彼にとって復讐の旅というのは、人生における目標だったので、それがあっけなく果たされてしまったら、これからどうやって生きていけばいいのかさえも考えられなかったのかもしれない。
そんなことを考えさせてくれるのがペキンパーの作り上げたヒーローの姿とも言える。
だが、そのイエローレッグの優柔不断さは新たなる悲劇としがらみを生んでしまうことになる(この辺が全部“たまたま”というのが妙な具合だけど)。イエローレッグの銃は子供を撃ち殺してしまい、性格的にその母親キットを見捨てることが出来ないので、遠い町の墓場までつきあうことになってしまった。それでイエローレッグに愛想が尽きたタークと別れるのにも、別段躊躇がなかった。むしろこれは復讐を先延ばしに出来、目標を持ったまま生きていけるという思いからだったのかも?
それでも又いくつもの偶然が手伝い、再びタークとまみえてしまう。ところが首尾良く復讐を果たすのか?と思われた矢先、イエローレッグはキットの言葉を聞いてあっさりとそれを諦めてしまった。
…なんだこりゃ?と思う一方、実はこれはイエローレッグにとって、キットという伴侶を得た。と言うことで完結しているのかもしれない。要するに彼にとって大切だったのは復讐ではなく、生きていくための目標だったのだから。キットの愛を受け入れることによって、彼は新しい生き方が出来ることを確信した。それで彼は満足だったのかもしれない。
この物語が更に拡大されたのが『砂漠の流れ者 ケーブル・ホーグのバラード』(1970)だったとも言えるか。考えてみると、そちらの方を先に観ておいて正解だったな。
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