[コメント] TAKESHIS’(2005/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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北野武久々の新作。前作が完全に娯楽に徹した『座頭市』(2003)のに対し、本作は題名通り武とたけしという二人の男が主人公で、二人の夢が現実をも浸蝕していくという、いわばメタ映画として作られてる。この監督の引き出しはとにかく多いことに改めて気づかされる。
出来としては決して悪くない。とにかく卑小な存在である武はたけしに憧れつつ、自分の現実が変えられることをただただ願う。それでオーディションを受け続け、その度に罵倒を浴びてすごすごと引き返す。夢の世界は、彼にとっては一種の理想郷だったはず。だが、その夢自体が自らの現実を浸蝕し始める。自分はこれまでの卑小な存在なのか、それとも武なのか、それとも両者とも全く違った存在に変わっているのかという… 極論を言わせてもらえれば、第一の世界と第二の世界は現実の監督自身の立場そのものを表し、この第三の立場こそが、監督の常に思い描いている虚構の世界そのものなのかと思える。下積み時代が長く、「売れてる自分がおかしい」と思える自分と、「それなのに現実に売れてるのに戸惑ってる」自分。この二者は今もなお監督を監督たらしめているジレンマではないだろうか?監督が時折自暴自棄な事件を引き起こすのも、この両者のジレンマによるものであり、そのとまどいこそが第三の自分自身を作り出し、それが映画作りのモチベーションとなっているように思える。
逆に言えば、本作は監督が映画作りをする過程というものを、そのまま描いた作品とも言えよう。監督の映画は監督自身をひたすら描いていくものが多いが、そうやって第三の自分を作り出し、それに演技させることによって自分のスタイルで映画を作れる。表層部分ではない、深層心理を画面に出せると言うことで、彼はユニークな監督たり得る。その意味で本作は、最も彼自身を良く表した作品だとも言え、だからこそメタ作品としての理由を持つ。
演出面で言えば、本作は徹底した北野映画だ。彼の映画、特に暴力ものの作品は、静から動への展開が突然に行われる。普通に談笑していたのに、突然銃を抜き出して回り中の人間を殺しまくる。静から動へと移る際、キャラに逡巡が全くないのだ。これからどうなるとか、罪悪感とか全く過程をすっ飛ばして直感だけで行動し、その結果どうなろうとも、その運命をただ受け止める。状況と行動があるだけで過程が無いのが彼の作品の演出であり、本作は見事にそれに適合してる。なんだかんだ言っても、本作は徹頭徹尾、北野映画に他ならないのだ。
そう言う意味では面白い要素はたくさん揃ってるのだが、ただちょっと本作には問題がある。
次に何が起こるか分からないというのは魅力ではあるのだが、演出で考えるならば、盛り上げ方が不自然すぎた。実際に前半の方が盛り上がったような感じだったし、映画全般にわたり、盛り上がる部分とためる部分が変な具合に出てくるため、観ていて疲れるだけでなく、後半飽きてくる。こういう作りだからこそ、その点を顧慮に入れて欲しかった。
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