[コメント] 若者のすべて(1960/仏=伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
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一家を故郷につなぎとめていた父の死が所謂「神の死」の暗喩かどうかは知らないが、彼に代わって一家を束ねる母が要所で「神様」と口にする様は、自らの運命を託する存在が目にも見えず触れられもしないことの寄る辺無さの表れではあるだろう。この母親の、独善と愚鈍と傲慢と身勝手はまったく目に余るもので、兄弟らがこの下品な田舎者の婆あを中心に結束する姿は別に美しくもなんともない。シモーネが殺人を犯したことを知って嘆く彼女が「こんな目に遭わせるなんて神様は冷たいもんだ」と口にしたときにロッコが「神様の悪口は言うな!」と泣きながら叫ぶ台詞には笑いを禁じえない。
故郷に帰る望みを末っ子のルカに託すロッコは最後まで、聖人として「楽園」に執着しているわけだが、都会に馴染み生活を築いていたヴィンチェンゾには、突然の家族の訪問はほとんど災難でしかないし、チーロもまた、家族内の平和よりも、一個の市民としての正義に兄弟の身柄を委ねる道を選ぶ。劇中で最も「神」のイメージに近づいたのは、シモーネに刺殺される直前、自らの体を十字にするように両腕を開いて彼を迎え入れたナディアだろう。だが彼女は、「死にたくない」と地を這いずりまわって絶命するのであり、許しの神が存在し得ないのならば裁きの神、或いはその代わりとしての法の裁きが登場するのも当然ではある。
今回、前に観たときから随分経ってからの再鑑賞になったのだが、それでも記憶していたのは、ロッコの眼前でシモーネがナディアを陵辱するシーンや、ナディアとロッコが聖堂の上で会話するシーン、ロッコの優勝を祝って、母親がアパートの住人達に酒を振舞うシーン。いずれのシーンも、空間的な演出が効いている。その意味では、チーロとルカが街頭で、遠い距離から挨拶を交わすシーン(劇中で二度現れる)もそれに該当するだろう。シモーネがナディアを刺殺するシーンでさえ、ナディアと一緒だったはずの男が遠くから二人の様子を覗い、やがて逃走してしまうといった空間性が現れる。そうした開かれた無人の空間の中で、ナディアとシモーネの距離が決定的な零地点に達することで、その悲劇性も際立つ。
原題でもある「ロッコとその兄弟」の悲劇よりも、彼らが現れたことで、それまで都会で自分なりに逞しくまたそれなりの矜持をもって生きていた女・ナディアが、その人生を翻弄された挙句に殺されてしまうことの悲惨さの方が印象に残る。一家の幸福という無垢な世界を守り通そうとすることの悪。故郷にとどまることの息苦しさから都会へと出てきた一家も、家族という自閉的な楽園の幸福を第一にしようとすることで、醜悪で不道徳な集団に堕落することになる。むしろ都会に馴染み、家族という単位を超えた倫理としての法を選ぶチーロこそが無垢さを保って見えるという逆説。
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