[コメント] 水滸伝(1972/香港)
日本映画を観続け、研究し続けたというチャン・ツェーにとって、マキノ、小林正樹、深作、石井輝男、伊藤大輔などなどの諸監督達と数々の名作・佳作・傑作を作ってきた丹波哲郎氏はあこがれの存在だったのだろうなあ。デビッド・チャン、ティ・ロンなどの子飼いのスター達を助演に回し(ティ・ロンに至ってはゲスト出演のようにさえ見える。まあ役は武松だけれども)、堂々たる主役扱いですよ。
この丹波さん出演をショウブラの台頭と絡めて考えてみる。1950年代末にラン・ラン・ショウとラン・ミー・ショウの兄弟によって創始されたショウ・ブラザーズは、60年代、当時最も大きな映画会社であった台湾系の国泰(キャセイ)の社長が飛行機事故で亡くなり、キャセイが求心力を失いゴチャついている間に台頭した(このころのショウブラ作品としては、リー・ハンシャンの日本公開もされた『江山美人』、この度日本でもソフト化されることになった『倩女幽魂』が有名)。全盛期の邦画がアジア中の映画館でかかっていた60年代半ば、日本映画に対抗すべくショウブラは俳優養成所創設、自社スタジオ拡張など様々な事業を行いそれらを確実に作品の“質”に結びつけてゆく。さらに中平康(楊樹希)、西本正(賀蘭山)、服部良一などの人材を招き、彼らの技術を徹底的に学び、吸収した。特に井上梅次は香港でも日本名と同じ井上梅次名義で登場、『香港ノクターン』(66年)など17本をショウブラにて監督する。60年代末、斜陽にあった日本映画界を追い抜き、ショウブラはアジア市場を独占。アジアはショウブラのものになった。
話を『水滸伝』に戻す。そんな隆盛を誇るショウ・ブラザーズであるのだけれども、72年当時は発足からまだ15年。覇権を獲得してからとなるとさらに短く、ほんの数年。会社としてはまだまだ若い。またこのころ会社の若さと同じく、ショウブラのスター達は、デビッド・チャンやティ・ロンなど若者が中心だった。中年男となると、ショウブラ映画常連のクー・フェンさんなどがいるが、彼らはどうも主役を張るにはいまいち。酸いも甘いも知り尽くした男前大スター(周りがスターさんばかりですから、余計目立つカリスマ性がないと辛いですな)というとどうも思いつかない。クワン・サン(ロザムンド・クワンの父)は現代劇恋愛物中心だからなんか甘過ぎのような気がするし、リン・ユンもどうも甘さが勝る気がするのでチャン・ツェー世界にはお呼びでない気がする(チョウ・ユン武侠片にはとても合っている)。あまたいるスター達の中でも燦然と輝く存在となると、“天皇巨星”ジミー・ウォングが思い浮かばなくもないが、ジミーさんはこの役をやるには黒すぎる。(しかもこのころはジミーさんはショウブラを離れて台湾へ行ってしまっている。)
それならば外部から呼ぶしかない。古い香港映画が京劇の世界からスターを呼んだように、チャン・ツェーは様々な技術を学んだかつての映画先進国日本からスターを呼んだ。(東宝とのリンクが強ければ三船敏郎や仲代達矢あたりが来たかも知れない。)もうこのころ、香港で映画というものはもはや完全に舞台から独立したひとつの文化として定着していたのだなあなどと思いめぐらせながら、国際派・丹波哲郎氏の存在感に痺れる。この輝きようは丹波さんの演技力や個性もさることながら、丹波さんに槍を持たせて修行させるなど完全に自分の映画世界に取り込んだ監督の手腕によるところも大きいと思う。この敬意の表し方、これこそオマージュと呼ぶべきもの! ミーハーの猿真似でしかない『キル・ビル』とは全然違う。あの映画ではリュー・チャーフィや千葉真一はあんまり大事にされてないような気がするもんね。
ちなみに丹波氏はこの映画の続編『蕩冦誌』(76年)にもワンシーンのみではあるが出演している。
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