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[コメント] 嫌われ松子の一生(2006/日)

ジェットコースターに乗って、銀河行きのベルが鳴れば、パラダイスへ旅立てる。そこはディズニーランド並みに豪華な占いの館。
空イグアナ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







占いというものは利用したことはないし、不思議な力というものもあまり信じてはいない。ただ占いというのは一種のカウンセリングであるとよく言われるし、そう言われるとなるほどと納得できる。

悩みを相談することの意義は、具体的に解決策が得られことよりも、話せば気持ちがすっきりするということである。不幸なときは「私が何をしたっていうの?」「私の人生は何なの?」と問いかけたくなる。だから「あなたは間違っていない。」「あなたのやってきたことは無駄じゃない。」と言ってもらえれば、問題が解決しなくたって苦痛が和らいだりする。

それが占いみたいに不思議な衣裳と部屋飾りで、霊だの宇宙の仕組みだのを持ち出して、「あなたは間違っていない。」「あなたのやってきたことは無駄じゃない。」「他人を幸せにしたぶん、自分にも幸せが訪れる。この世そういう仕組みになっている。」と言ってもらえれば効果は抜群だろう。まあ、初めて相談する相手から十分程度の会話しかしていないのに、「その結婚はやめなさい。」とか言われたら嫌だが。(そういう占い師の批判は松尾貴史に任せよう。)

この映画は川尻松子という一人の女性の一生を130分に凝縮したものである。人生とは何かを考える材料になるし、私たち個人の人生をふり返るきっかけにもなる。それも病室で行われるカウンセリングではなく、アニメや合成やミュージカルで演出した、いわば豪華な占いの館である。前作の『下妻物語』よりジェットコースター的な感覚が減ったような気もするが、そこは問題ない。ディズニーランドのジェットコースターは絶叫マシンとしては今ひとつかもしれないが、豪華な装飾で夢の世界に連れて行ってくれるから満足なのだ。

松子の前には、何度も「愛する人」が現れ、そして消えていく。その中で私が特に印象に残ったのは、刑務所に入った龍(伊勢谷友介)を待ち続ける松子だ。愛する人が刑務所に入っても彼女は笑顔を絶やさず、歌い続ける。刑務所の壁に頬を寄せる。美しい物語だ。しかし龍はもう二度と松子に会うまいと誓っていた。悲しいすれ違いの物語。

ここは刑務所の外と内を映した画面の切り替えが絶妙で、観客席から吹き出す声が聞こえてきた。私も笑った。そして感動した。

この映画は、人間どうしのすれ違いを何度も描く。

出所した龍に殴られ呆然とする松子。この四年間は何だったの?という顔だが、では龍が刑務所に入った時点で彼のことは忘れてさっさと別の男と関係を結んでいたら幸せになったのか?龍を待ち続ける松子は幸せそのものだ。どちらが幸せだったか、答えは誰も知らない。人は過去に戻って人生をやりなおすことはできないのだから。

そもそも龍との関係は、教師をやめるきっかけとなった彼が、実は自分が好きだったというところから始まっている。父親は妹にばかり愛情を注ぎ、自分のことなど気にもとめない。それが嫌で父親とケンカをして家を出たが、父親の日記には松子からの連絡を待っていることが書かれていた。妹に嫉妬し、首を絞める松子。それがもとで「久美はおかしくなった。」と話す弟。この話だけ聞くと、妹はもう二度と松子には会えないように思える。しかし実際には、松子が実家に帰ったとき彼女は喜ぶのだ。それも、母親でさえわからないほど変わった松子を見て、姉だと気付くのである。

同時に、この映画は「今までの生活(または努力)は何だったの?」という絶望を繰り返し描く。

父親の気を引くため、変な顔をして見せた松子。しかしそれは無駄な努力だったと彼女は語る。ソープランドで働いていたが、それもやめることになる。スクワットをして体を鍛えてまで打ち込んだ仕事だったのに。刑務所から出所後、島津賢治(荒川良々)の床屋を訪れるが、彼はすでに結婚し、子供までいた。ずっと彼との生活を楽しみにしていて、それが刑務所での生活のエネルギー源だったのに……。「人生が終わったと思った。」と何度も語るが、そう言いながら終わらない。人生とはそういうものだ。

松子は本当に不幸だったのか。確かに何度も絶望しているし、あんな引き籠もり生活もしたくない。しかし例えばソープ嬢として夜の街を仕事仲間と歩く彼女は笑顔いっぱいだ。父親とも本当によい思い出はないのだろうか?よい思い出とは、デパートの屋上で劇や歌を鑑賞することだけではなく、一家団欒とかいったごく平凡な思い出のことだ。

題名には「嫌われ松子」とあるが、本当に彼女は誰からも愛されなかったのか?そもそもどれだけ愛されたかで、その人の価値を計るというのが、偏った見方なのかもしれない。愛してくれる人を見付けられなかった「嫌われ松子の一生」でなく、色々な職業を渡り歩いた「働き松子の一生」と題名を変えたら、また違った物語ができるのではないか?一生ではなく、一部分だけを切り取ったら?

もし私の人生を一冊の自伝にまとめるとしたら、どのような視点で書くだろう。

最初に、悩みを相談することは、気持ちを楽にすることが目的だと書いたが、人は悩んでいなくたって、自分の人生を語りたくなるものだ。酒を飲みながら自分の部下や後輩に自分の過去を語って聞かせる。偉業をなしとげた人間でなくたって、誰だって自分の自伝を書きたくなる(そう、劇中の松子のように)。ブログだのシネスケだので自分の想いを吐き出したりする。それは部下や後輩や読者のためというより、語っている本人のためである。自分の人生を振り返るため−−−と言えばかっこいいが、大抵はその人の勝手な満足感のためである。

映画館から出たとき、私はとても感動していた。何か自分の人生をリセットして新しい出発点に立たされたような気分だった。別段悩みを抱えていたわけではないが、映画館のそばのベンチに座り夜の街を見て休んでいると、自分が川辺に座る松子と重なる気がした。

……もちろんそういう気持ちにさせられたというだけであり、私の勝手な満足感である。実際その後の私の生活には何の変化もない。

(追記)

●時系列をばらすなら、「あ、あのとき登場した男の子が、子供時代の笙(瑛太)だったのか。」という驚きがほしかった。

●出演者が豪華。エンドクレジットと映画館から出たときそこに貼ってあったポスターが「この人が出演していることに気付きましたか?」という答え合わせに見えた。

(評価:★5)

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