[コメント] 瀧の白糸(1933/日)
例えば、1933年の本作を頂点として、この後1936年の『浪華悲歌』までの数年間を、溝口のスランプ時期とみなす論もあるようだが、私は本作よりも『折鶴お千』(1935年)の方が数倍良いと思える。いや『折鶴お千』の研ぎ澄まされた純度の高い映画性に比べると、本作はいたって普通の、もっと云えば不純な夾雑物にまみれた作品じゃないか(もっとも、現存するサイレント期の溝口作品はとても少ないので、この段落の私の発言は甚だ心もとない)。
とは云え、序盤は素晴らしい。ファーストショットの猿回し(2匹の猿)から通りを俯瞰で移動して幟(のぼり)を見せ、次にコヤ内を舞台へ前進移動、太鼓などの鳴り物をかすめて、笑う太夫・白糸−入江たか子を登場させる導入部。すぐに白糸のフラッシュバックが挿入され、馬車と人力車の大俯瞰ショットを繰り出しながら、馬丁の(御者台にいる)岡田時彦と絡ませる大胆な語り口。いやはや、入江のアップがまた美しい。数日後の夜の河原と橋を舞台にした再会の場面でも、入江を何度も振り返らせる所作の演出が見事なもので、実に細かくカットを割る。アップの切り返しは勿論、ツーショットのドンデン(180度のカメラ位置転換)まである。
と云うワケで、中盤、終盤含めて溝口らしい俯瞰の良いショットは沢山あるけれど、後年トレードマークのように云われる長回し・シーケンスショットはほゞ無い(少し長いショットも途中で挿入字幕が入る場合が多いので余計にそう感じる)。むしろ、これでもかと云うぐらい肌理細かくカットを割る演出が、全編に亘る映画だ。これは特に、終盤の予審から公判にかけての一連のシーケンスで顕著に感じられ、さらに、科白の挿入字幕も沢山入って、私には、終盤はなんとも説明過多の、理屈っぽい演出に思えてしまったのだ。ただし、私が見たのは最終盤(エピローグ)が完全に欠落したバージョンだったので、もしかしたら、最後の最後でアッと驚くような映画性を定着していたのかも知れない。
#備忘でその他の配役などを記述します。
・悪役、高利貸しの岩淵は菅井一郎。若い。
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