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[コメント] ホワイトハンター ブラックハート(1990/米)

traveling(旅/移動撮影)による、travelingへの考察。撮影という罪、撮影という罰。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭、空を飛行機がゆく光景が遠くに見え、ジョン(クリント・イーストウッド)が馬を駆る姿が現れる。馬上からの主観ショット。激しく揺れるカメラ。これは移動の映画であり、移動の果てが、対象を貫くという事、つまりは象を撃つ、という行為へと転換されていく。

飛行機に乗ってアフリカにやって来たジョンたち。彼らが乗った車が、原住民を蹴散らすように進む。またジョンが脚本家・ピートと一緒に乗ったセスナの前を、鳥の群れが羽ばたいていく。原住民や動物たちを押し退けて進んでいく侵略者たる、白人たち。

馬、車、セスナ、と、乗り物から撮られた主観ショットが続くが、ジョンの監督する映画の被写体である蒸気船に乗っての川下りでは、滝を前にしてさすがのジョンも引き返す。この後でジョンは、サバンナで銃声を鳴り響かせて、それを耳にした動物たちが散っていく。つまりここで「shot=撮影」が「shot=射撃」へと移る訳だ。だがジョンは、実際に象を至近距離から撃てる状況になった時、結局は撃てずに終わる。

様々な乗り物から撮られたショットは激しく揺れ動くのだが(セスナの時にはジョンの指示で無理に揺らしていたくらいだ)、映画(=虚構のイメージ)の中の存在となるべき蒸気船で、危険を前にして引き返した後、カメラが大きくぶれるのは、台本を奪って部屋を走り回る猿を追うカメラや、怒れる象の巨体の動きを追うカメラだ。つまり、移動の主体として揺れるのではなく、動き回る対象、被写体に翻弄される形での揺れ。

移動=眼前の存在を押し退けて進む事=射撃(shot)。撮影(shot)という行為の延長線上にある射撃。共に、或る対象の位置、動きを捕える行為に他ならない。だが撮影は、射撃の不可能、対象を前にしての停止、不能性なのだ。

脚本家であるピート(ジョフ・フェイ)は、象という存在の崇高さを讃え、「さすが脚本家だ、言葉が巧みだね」と称賛されるが、監督であるジョンは、実際に現地に行き、危険へ向かって行って「shot」を行なわなければならない。ジョンが象を撃つ事について述べる意見は、製作者から資金を受けて「shot」を行なう監督という職業についてのそれと重なって聞こえる。曰く、「象狩りは蛮行なんかじゃない、それ以上だ。罪だ。許可を買って犯す唯一の罪だ。だからこそ、何物にも代え難い」。

或る場所に行く、滞在する、という行為そのものが、そもそも罪、暴力性を担っている、という事が、アフリカでの白人と黒人の関係に表れている。この映画のモデルとなった『アフリカの女王』も、原住民に讃美歌を教える宣教師兄妹の場面から始まっていた。しかもこの兄は、アフリカになど来たくなかったのだ。対して、本作のジョンは、ホテルで黒人の給仕が白人のホテルマンに差別的な扱いを受けている事への義憤から、拳闘を挑んで倒されるような男ではある。だが、そんな彼の危険な象狩りに付き合ったせいで、原住民ガイド・キブは死ぬ事になるのだ。

この、ジョンの犯した罪を、太鼓を打って皆に伝える原住民。ジョンは通訳にそのメッセージを訳してもらう。「白人の猟人、邪な心(White Hunter, Black Heart)」。事ここに至っても、「Black」が英語では「邪ま」を意味するという、この徹底的な断絶。

ジョンは、ピートの意見に従って、映画の結末を、主役二人の死ではなくハッピーエンドに変える。現実の死を眼前にしての、虚構への屈服。彼がディレクターズチェアに座って発する「アクション」の声の力の無さには、映画のactionは所詮、本当のactionたり得ないという不能性への諦念と、この二つのactionを混同したジョンの罪が、重く圧し掛かっている。不能性。ジョンが劇中で度々咳き込んでいたのも、その表現としてだろう。

エンドロールで原住民たちの声で歌われている曲は、フォスターの“主人は冷たい土の中に”。その歌詞は、プランテーションで働く黒人たちが、優しかった主人を偲ぶ、という内容。

(評価:★5)

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