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[コメント] ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド(2005/英)

永遠の、強いられた二人三脚。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「Brothers of the Head」=「頭の兄弟」。体は一つ、頭は二つ。だが劇中の兄弟の体はピタリと一体化されてはいず、胴体の結合部だけで繋がっており、一見するとメスでバッサリと切り離せそうにも思える。切れそうで切れない関係、繋がり合いながらも一つにはなれないもどかしさが、そのまま彼らの身体的特徴に表れている。共有性としての身体と、自分は自分だという、分離と自意識としての頭。

「他者と共有し合う身体性」という関係は、映像作家と観客のそれともどこか似ている。映画を観ている間、観客は、制作者による視線の誘導に、概ね従属させられるのだ。

監督二人は、私生活上もパートナーだという。多分、主人公二人の絆と不自由さに、自分たちの生活を重ねて描いた部分もあるのだろう。劇中、主人公たちがバスルームで体を洗っている所を撮影していたカメラマンが彼らから怒られる場面があるが、そうしたプライベートな行為でさえ、兄弟で共有しなければならないという事。また、観客にとっては、美青年二人が、暗く狭い空間で一緒に体を洗う光景には、ホモセクシャルな匂いを感じずにはいられない。

監督二人はテリー・ギリアムを師と仰いでいると云うが、実際、この映画に出てくる荒涼とした荒地は、ギリアムの『ローズ・イン・タイドランド』のそれを思わせる。二人はギリアムの挫折した映画製作の過程を追った『ロスト・イン・ラ・マンチャ』の監督でもある。映画というフィクションが、いかに現実と対峙しているか、をドキュメントした作家というわけで、本作の擬似ドキュメンタリー形式は、ちょうどその逆を行なう意図があったのだろう。

だがその疑似ドキュメンタリー形式が足枷となって、兄弟たちの内面がもう一つ描ききれていない。体が繋がっているから、どこかへ出かけるのも一緒、女の子を口説く時も、セックスする時も一緒、という生活ぶりから生まれる葛藤への突っ込んだ描写が薄く、特異な設定がドラマとして充分に活かしきれていない。性格の対照的な兄弟の、互いに補い合いながらも反撥し合う関係は一応見てとれるが、そこから生まれる印象的なエピソードというものが無い。ケン・ラッセルによる彼らの伝記的映画という劇中劇で多少は補おうとしているが、そうして二重にフィクション化された事でよけいにパトス的、劇的な強度は弱められている。また、編集・演出的にも、本編全体の中に有機的に繋がれていないので、単なるオマケ映像にしか見えない。

加えて、疑似ドキュメンタリ―だからこそ出来る筈の演出にも乏しい。ザ・バンバンのデビューを世間がどう受けとめたかや、本当に彼らの音楽性が評価されたのか、それともキワモノとして、物珍しさだけで人気になっただけなのか、といった所を追求しても良かった筈。

(評価:★3)

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