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[コメント] ジダン 神が愛した男(2006/仏=アイスランド)

饒舌なる無言。ただし、単調な饒舌さというものもある訳で…。
煽尼采

作品そのものには不満が無かった訳ではないが、やはり映画館で鑑賞したのは正解だった。大きなスクリーンと、方向性まで立体的に味わえる音環境があって初めて、この映画のような体感型の作品の本領を吟味できる。選手達の息遣い、声。スパイクが芝生をサクサクと踏む音。多彩な声が交じり合った、観客の歓声。選手達のぶつかり合う音。そして、腹に重く響く、ボールを蹴る音。ジダンがピッチの中で聞いていた音が、初めて‘観客’と共有される。

途中、ジダンの言葉が字幕で入る所があり、彼自ら、試合の中での‘音’についても言及していた。ジダンの語る聴覚的状況を、映画は再現してくれている。モグワイによる、環境音楽風のシンプルなBGMの挿入は、却って画面に静寂さをもたらしてくれている。

カメラは基本的に、ただひたすらにジダンを追う。混戦の中で奮闘する彼を遠景で捉えたり、滴り落ちる汗を拭いつつ、思考を巡らす表情を、アップに収めたり、といった映像の繰り返し。彼が蹴ったボールの行き先さえも不明で、試合状況は曖昧にしか理解できない。ジダンの名コンダクター振りを堪能したい向きには、不満が残りそうな演出ではある。

だがこの映画の主眼は、試合の推移を捉える事にあるのではなく、飽く迄、試合の中でのジダンの感情のうねりや奔出を定着させる事にあったのだろう。蹴ったボールがその後どうなったか、よりも、ボールを目で追うジダンの表情の揺らめきの方が主題な訳だ。「クローズ・アップが面白いのは、ただそれによって細部が見えるようになるからではない。行動は個別的なものを全体に組み込むが、クローズ・アップはその行動を停止して、個別的なものがそれだけで存在するようにさせ、個別的なものの特異で不条理な本性を発現させる」(E.レヴィナス)。或いは「映像=感情」としてのクローズ・アップ(G.ドゥルーズ)。そして、そこに挟み込まれる、ジダンが見たであろう、会場の光景。ライトの光や、観客の顔、点数を表示する電光掲示板。それらは、僕らがいつもテレビで観戦している試合会場にも、普通にある筈の光景。しかしまた、普段は僕らが目にする機会は無い光景。観ている場所そのものに違いはなくとも、それを見る視角の変化、対象との距離感の変化に、幻を見るような不思議な感覚を覚えた。

ただ、この映画、始終ジダンのみを追い続けているのかと思いきや、時々、競技場の、多分一番高い所から、豆粒のような選手がうごめくピッチを捉えたり、しまいには競技場の外壁の映像から始まって、ずんずんと会場の中に入って行き、観客席から見たピッチを映し出して見せたりと、色々な工夫をしてみせる。一見すると不可解、或いは単なるビデオクリップ的なクールさを狙っているだけとも思えるこれらの映像。だがそれらは、その日ジダンが立っていたピッチという場所を、様々な角度から撫で回すようにして、全方位的に把握しようという衝動によって生み出されたものなのだろう。

そうした実験的な映像は、ジダンに肉迫しようとするベクトルと同時に、ジダンの内面を完全に捉える事の出来ないもどかしさ、距離感さえも浮き彫りにする。例えば、ジダン本人よりむしろ、そのジダンを撮っているカメラのモニター画面を映した映像。ピントのぶれたカメラに映る、蜃気楼のように滲んで見えるジダンの姿。オープニングでの、接写されたモニター画面で明滅する、RGB三原色のドットの群れ。この映画は、一人の男の闘う姿に、極限まで肉迫しようと試みるが故に、そこに映しきれない生身の肉体との距離感を、強烈に意識させてくれる映画でもある。単にジダンの姿をアイドル視して追いかけた映画などではない。

――と、試みとしては素晴らしい映画だったとは思うけど、やはり、状況のよく分からない試合を、延々と一時間半に渡って観続けるのには、正直、集中力の限界を感じた。その疲労感が、上手い具合にジダンの疲労感とダブっている内はまだ良いのだけど、映画的なアプローチのパターンも出尽くした辺りになると、遂に睡魔が我が瞼を重力圏内に引き込み始め…。

(評価:★3)

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