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[コメント] パリ、ジュテーム(2006/仏=独=リヒテンシュタイン=スイス)

シャレた幻想空間としてのパリ。日常卑近の生活空間としてのパリ。どこにでもありそうな人生の断面がそこにもある場所としてのパリ。国籍不明な非現実的空間としてのパリ。観光地としての、皮肉なパリ。この多様性が見所。量が、多面体としての質をもたらす。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







●第1話・18区「モンマルトル」(監督:ブリュノ・ポダリデス

一発目からパリの町並みを殆ど無視して車内にドラマを集約していく割り切り方がいい。このアプローチによって、駐車スペースの少ないパリの事情や、他人の振る舞いに文句をつけながらも自分がまさにその一員であることに無頓着なパリジャン、それでいて「僕にはユーモアもある」云々と自賛的に他人との差別化を図る独り言の滑稽さが浮き彫りに。パリの「狭さ」、車内空間の「狭さ」に、パリの街を圧縮し解凍してみせるアイデアが面白い。

●第2話・5区「セーヌ河岸」(監督:グリンダ・チャーダ

道往く様々な女性に声をかける男たちを画面奥に、彼らの軽薄さに笑いを隠し切れない様子のアラブ人女性を画面手前に捉えたショット。これを見ている間、あの無作法な男たちがこの女性に迷惑をかけるのではないかと心配させられてしまうのだが、彼らは、すぐ目の前にいるその女性には声をかけない。すると却って、髪を隠すスカーフが見えない壁を築いているのだろうかと、別の憂いが湧いてくる。実際、石に彼女が躓いたら、彼らは笑うばかり。彼女に声をかけた一人の青年との、「なぜ髪を隠すの?」「自分の意思だし、隠した方が奇麗でしょう?」といった問答は、フランスでのスカーフ問題(宗教的な意味合いがあるとして、公共の場で禁じられているとか)を想起させて微妙な緊張感を感じさせもする。二人の見えない壁を崩すのは、携帯電話で写真を撮るとか、彼女の祖父から青年に声がかけられる、といった、何げない日常性によってだ。

●第6話・13区「ショワジー門」(監督:クリストファー・ドイル

「東洋の女性は金髪なんかにしなくていいよ!黒髪のままの方がよっぽど奇麗じゃないか!」という西洋人男性としての主張を、髪の問題解決オジサン(バーベット・シュローダー)に託して描いた妄想ムーヴィーといった観。その、僕としても同意はするが、同時にどうでもいいような主張を、わざわざカラフルなファンタジーとして展開する、いい意味でのバカさ加減が割と好き。

●第8話・2区「ヴィクトワール広場」(監督:諏訪敦彦

馬の蹄の音を聞くと快感を覚えてしまうという個人的な理由もあって、画面中央に座り込んだジュリエット・ビノシュの周りをカウボーイが回るカットは気に入った。ゴッホの“夜のカフェテラス”を思わせる黄色い灯りが敷石に照る様も美しい。

●第9話・7区「エッフェル塔」(監督:シルヴァン・ショメ

マイム芸人の二人と一緒に牢に入れられた男が「出してくれ!」と叫ぶシーンで笑いたいのだが、カメラが延々とマイム芸人の奮闘を彼中心で捉え続けていた上に、二人のマイム芸人がイカれた連中に見えるようなショットが撮られていないせいで、あまり笑えない。幼い息子が「マイム狂いの子!」と他の子に苛められる姿にも、もっと哀感や優しさを見せてほしい。

●第15話・8区「マドレーヌ界隈」(監督:ヴィンチェンゾ・ナタリ

あまりに通俗的。イライジャ・ウッドが、そこを昇って現れた当の階段を転げ落ちて女吸血鬼(オルガ・キュリレンコ)の獲物となる幸福を勝ち得たところで終わらせればまだよかったが、互いに噛み合うシーンまで加えたのは蛇足。血とエロティシズムの作品なのだろうけれど、あのマンガチックに赤い血の虚構性も巧く機能しているとは思えない。全作品中、最も異色の作品だが、全篇に於けるアクセントとなり得ておらず、単なる異物感だけが残る。

●第18話・14区(監督:アレクサンダー・ペイン

第11話・20区「ペール・ラシェーズ墓地」(監督:ウェス・クレイヴン)と共に、パリが偉人たちの足跡の場所、つまりは墓地が名所の街だと教えてくれる。ジャン・ポール・サルトルと一緒に墓に入っているのが「シモーヌ・ド・ボーヴォワール」であることさえ知らずその名を読み間違えるところからして、主役の女性・キャロル(マーゴ・マーティンデイル)はフランス文化に興味があるというより、漠然とパリに憧れていただけなのだと分かる。彼女が公園で一人ベンチに座って食事をとっていた時に、不意に訪れた感慨。それは、まさに彼女がパリに抱いていたイメージが表面的であったからこそ、その薄っぺらい表皮が剥がれ落ちた後に何も残らず、何の接点も無い異邦人としてその場の空気に包み込まれていることの悲しみと喜びとが、より純粋な形で到来することになるのだ。

この覚醒が訪れるシーンでの、キャロル視点から公園を捉えたショットは凡庸なものであり、彼女の凡庸ならざる感情を視覚的に示してはくれないが、むしろその凡庸さこそが企図されていたのかも知れない。反面、キャロルのクローズアップは、内なる覚醒によって顔が輝いて見える。

最後を飾るのに相応しい作品。もし自分がパリに生まれていたら、郵便配達員になって、皆と親しくなって……と空想を語るナレーションが入るカットでの、当のキャロルが、誰も居ない、白い壁が続くだけの道を歩いているショットが皮肉かつ的確。

(評価:★4)

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