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[コメント] ツォツィ(2005/英=南アフリカ)

やや唐突さを感じさせるストリート・ミュージックの挿入が、深刻な場面からその深刻さを剥奪する。これを演出的な不手際と断ずる事は僕にはできない。この映画の深刻さは、人の生死をツォツィが深刻に感じていなかった事にあるのだ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







そうした事を狙った上でのストリート・ミュージックの使用であったのかは知らないが、慣習的な映画的正しさからは逸脱しているようにも思える選曲は、画面内の出来事に観客の意識の焦点が合うのを妨げ、感情移入を拒んでいるかのようだ。電車内での強盗殺人後、パーで流れるダンス・ミュージック。赤ん坊の泣き声に動揺し、オシメを替えようと焦るツォツィが大音量でかける曲。赤ん坊を連れ、自分の幼い頃のねぐらである土管を見せに行くツォツィ。赤ん坊の家に仲間を連れて強盗に出かけるツォツィ。これらの場面で挿入されるリズミカルな音楽は、それが流れている事によってよりも、その音が途切れたり、後退する事によって、事態の深刻さを告げる効果をもたらす。仲間の訪問を受けたツォツィが、赤ん坊のお漏らしした臭いに感づかれる場面では、赤ん坊の泣き声をかき消す音楽が部屋から洩れている事と、臭いが扉の外に漏れている事とが巧い具合にリンクしている。

また、全体を通して考えれば、本当に物語の上でシリアスさが求められている場面では、これらの音楽は使用されず、それに相応しい曲が流れている。そうした意味では、やや面くらってしまうヒップ・ホップ調にも、演出的な計算はやはり働いていたと見るべきかもしれない。

少年が、「ツォツィ(不良)」から「デビッド」へと帰る事は、自身もまた人の子である事への回帰でもある。その過程を、ツォツィが拳銃で脅して赤ん坊に母乳を与えさせた(言わば母乳強盗…)女の「母」としての姿や、彼女に赤ん坊の名を「デビッド」と呼ばせる事による、自らの幼少時のやり直しで描く様は、その図式的な分かり易さ以上に、ツォツィの呆気にとられたような表情の微妙な変化によって、ストレートに響いてくる。彼のみならずこの映画は、冒頭であっさり殺されてしまう金持ち親父でさえ、顔に味があるのだ。

最も味のある顔といえばやはり、あの脚の不自由な物乞い男の顔が浮かぶ。ツォツィに、障害者の振りをしているだけだと疑われ、「立って歩け」と命じられた時の「お前はキリストか?」という返し方(キリストが、脚の萎えた男を奇蹟で立たせた事に因んでいるのだろう)など、切り返しの巧さに微笑を誘われる。彼の喋りのリズミカルさも魅力的。

赤ん坊を返す事にしたツォツィ(白い服に着がえている事で、視覚的にその改心が見てとれる)が、途中でこの物乞いに金をやる場面は、母乳を貰っていた女に金を拒絶された事の哀しみへの慰めかもしれないが、そもそもツォツィの改心そのものに、物乞いとの会話が間接的に関っているように思える。ツォツィは物乞いに、二度蹴った犬が背骨を折って這いずりまわっていた、と話し、「なぜそうしてまで生きようとするのか」と問う。物乞いは「太陽の温かみを味わいたいから」と答える。この答えはたぶん、太陽がどうこうという話ではなく、生きて、そこに在るものを感じていたい、という単純な気持ちを表現していた台詞なのだろう。

実は、犬を蹴ったのはツォツィではなくその父親なのだが、赤ん坊の母親が、物乞い男と同じように脚が不自由になったのは、ツォツィに撃たれたせいなのだ。犬が蹴られた夜、ツォツィは父の許から逃げ出した。だがその逃げてきた父の暴力を、ツォツィ自身が反復していた訳だ。犬の這いつくばる姿、赤ん坊の泣き声。「生きよう」とする他者の姿がツォツィの最後の一片の良心に働きかける。犬を蹴った父の前でツォツィは無力だったが、赤ん坊に対しては、その命の責任はツォツィに担わされる。「他者の命を左右する」事が、犯罪という形ではなく、かつてのツォツィのように無力な命を救うという形で為されるのだ。

(評価:★3)

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