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[コメント] 大日本人(2007/日)

「語るべきこと」を持った「作家」であることを堂々と証明してみせたとは言いすぎか。怠惰で無責任で小ずるくお人好しの民、日本人の、特異で「おもしろ哀しい」生態をこれほどまでに暴力的に描いた作家は、若かりし頃の今村昌平監督以来かも。
bravoking

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 残念ながらダウンタウンの松本氏がこれまで「ごっつ」や「ガキの使い」で展開してきたような「お笑い」への期待は裏切られたかもしれません。それでも、今作はとても「おもしろい」作品でした。少なくともわたしにとって。

 とはいえ、松本氏が「映画」を作りきったか、と言えば、答えは否、という他ありません。自分流の作り込んだ笑いを展開する場所、器としての「テレビ」が持つ限界について、敏感に察知し、そこにどうにか穴を穿とうと様々な実験を繰り返してきた開拓者松本氏にとって、「映画」という器はそれなりに魅力あるものだったはず。けれども、今回はその器を使い切ることができなかったのではないか。その例をいくつか挙げてみたいと思います。

 例えば「撮影」について。撮影を担当したのは、山本英夫氏。三池崇史監督との仕事において融通無碍なスタイルを獲得し、被写体のダイナミズムを捉えることには定評のある、いまや日本の映画界のトップランナーの一人と言ってもいいでしょう。おそらく監督処女作品ということもあって、氏の登用には万全の態勢で臨みたいという製作側の意図があったはず。ですが、今作の重要な仕掛の一つであり、作品の流れを作っていく重要な部分、テレビドキュメンタリー/インタビュー部分の撮影に、山本氏は失敗しています。そしてその失敗はこの作品の成否に関わる出来事ではないか。けれどもそれは山本氏が優れた映画カメラマンだからこその陥穽だったのではないか。そして……。

 失敗の大きな原因に「画面サイズ」と「画角」があります。昨今の大画面、ワイド画面のテレビの流通にもかかわらず、テレビは、結局、縦横比3:4の世界です。これはかつての日本映画の画面サイズ、1:1.33と同じです。ですからわれわれにとって、テレビドキュメンタリーも、その1:1.33 のサイズである、という刷り込みがなされています。ところが今作では、上映時はいわゆるアメリカンビスタサイズ、1:1.85(多分映画館のスクリーンの都合)、撮影時は、CG合成の多さから考えてハイビジョンサイズ、1:1.78でしょうか。つまり、テレビドキュメンタリーにしては横がかなーり長い画面サイズになってしまっています。その差がいったいどんな影響を及ぼすのか。

 簡単に言ってしまえば、背景が映りすぎてしまう。今作のテレビドキュメンタリー部分の多くが「大佐藤」へのインタビューで、主な被写体はたった一人。ですから、ちょっと引いたサイズにするだけで、背景も含めたその被写体の「状況」を映し出すサイズになってしまう。ところが、テレビドキュメンタリーのインタビュー撮影の主眼は、「人物」にあります。言葉を発するその人物に肉薄することで、さらにその言葉を浮かび上がらせようとします。ですから、多くのインタビュー映像は、その行程のどこかで必ずと言っていいほど、人物のアップになっていきます。ならざるをえない、と言ってもいいかもしれません。それはまた、1:1.33というある意味で狭いサイズを逆手にとった、テレビならではの手法なのでしょう。ところが、今作でのインタビューシーンにおいて、ほとんど人物のアップが見られません(大佐藤と四代目のイメージシーンに唯一あったような)。その理由はいくつか考えられます。

◎まず、「映画」らしさを保ちたい、という意図。

人物の顔のアップは確かに、その人物の発する言葉と人物そのものへと肉薄していきますが、それがスクリーン全体を覆い尽くすようなものの連続は、「映画らしさ」から遠いもの、とされています。普段、映画のカメラマンはあくまでもドラマという「状況」の中へ被写体を配置することや、大きなスクリーンに映写された時のことを想定することなどを肉体化していますから、いきおい人物のアップを連続して捉えることにたためらいがあります。それはもはや生理と言ってもいいかもしれません(もちろん、効果的なアップについては逆に望むところ)。

◎演出的な意図。

たとえば、巨大化した大佐藤の巨大さをより強調するために、普段の大佐藤の印象をより儚げに、頼りなく映したい……たとえば「佐藤」という名前に象徴される匿名性に接近したありきたりな要素、普遍性を強めるために、個としての「大佐藤」へ肉薄することを避けた……これはこれで納得できる意図ですが、前提として、テレビドキュメンタリー部分が「らしく」映っていなければ、全てがご破算。

◎現実的な条件がアップを不可能にした。

例えば、あのロン毛のカツラ。普段の松本氏がいわゆるスポーツ刈りであることは、小日本人のわれわれのほとんどが知っています。その松本氏が大佐藤氏に扮してロン毛のカツラを被っている。われわれ観客は通常、「映画だもん、虚構だもん、そういうもんだもん」と思いつつも、作品にのめり込んでいく過程でその印象を圧殺しながら、作品を楽しもうとするワケですが、あのどうにも出来のよろしくないカツラを被った松本氏がアップになることで、その虚構性がことさらに顕わになってしまうことを撮影側が恐れた……おいおい、深読みしすぎだ。

 とまあ、画面サイズという視点から勝手な難癖をつけてきましたが、それならば、いっそのことテレビサイズにしてしまえばよかったのではないか?という考え方も。左右に大きな黒味を配置するか、もしくは画面中央に少し小さめのスタンダードサイズの画面を配置するとか……しかし、このテレビドキュメンタリー部分の尺の全体尺との割合からすると、かなり鬱陶しいことになるでしょう。つまり、見る側にとって作品にのめり込んでいく障害となるものが現れてしまうような気がするのです。

 さて、次に「画角」の面からも、考えてみます。

通常、カメラマンは撮影稿を読み込み、作戦を練る際に、いかに見る側を飽きさせないように撮影するか(身も蓋もない言い方ですが)、を考えるでしょう。いかにそのドラマにふさわしい撮り方をするか、と言い換えてもいい。そして各シーンの構成を検討するにあたってメリハリをつけることを心掛けます。そこで最初の手がかりとなるのが、被写体のサイズであり、カメラの角度(人物、背景に対しての上下左右からの角度)、つまり「画角」です。観客はだらだらと変化に乏しい物語にだけでなく、変化に乏しい映像にも飽きてしまいます。ですので、撮影者は画角の変化をつけることを常に考えています。例えば奥行きの乏しい平面的なカットの次には、鋭角的で立体的な構造のカットを撮影したり、変化に乏しい「内容」ならば、味付けに移動撮影したり……つまり、どのカットも相当の創意工夫が凝らされています。ところが……あくまでも一般論ですが……テレビドキュメンタリーは少し事情が違っています。背景や照明の状態について多少の工夫はあっても、基本的には被写体に対して、ある意味で無造作に向かおうとします(インタビュー撮影の際の定番作法は一応あるが)。それは、被写体へより肉薄するための必要条件でもあります。つまり、被写体によりストレートに肉薄するためなら、背景や照明や画角は後回しにしなければならない局面が往々にしてあるのだ、という覚悟のようなものだといっていいかもしれません。

 一方、今作において、優れた映画カメラマン(揶揄してるわけでは毛頭ありません)である山本英夫氏は、見事なまでにキチンとした工夫を凝らしています。どのインタビューシーン一つとっても、なにかしらの技が施されています。だって、当然でしょ?これは映画なんだから……ですが、そのことが逆にテレビドキュメンタリー/インタビュー「らしさ」を損ねているのだ、と言わざるをえません。妙な話ですが、もっと無造作で猥雑なセンスが必要ではなかったか。

例えば……インタビューシーンはそれこそ手練れのテレビカメラマンに撮影を委ねてみてもよかたんじゃないか。一方、「獣」との対決シーンは技術の蓄積のある「円谷」系に委ねてもよかったんじゃないか……。

 とまあ、「撮影」の視点から、実に勝手な思いこみ丸出しの言葉を書き連ねてきました。他にも、ドキュメンタリータッチを狙った手持ち撮影なのに「段取り」臭いのはなぜか? というようなことなどについても考察したかったのですが、切りがないので止めましょう。

そんな「サイズ」だ、「画角」だ、なんてことは観客からすれば、どうでもいいことだろがよ? という意見があるかもしれません。ですが、はっきりとそれは間違ってると言えます。面白い作品は、絶対的にその撮影も巧緻が尽くされているんです。だからこそ、逆に撮影のことなんか気にならない。素直に作品にのめり込んで行けるのだ、と。

 結句、なにが言いたかったかといえば、例の一つとしてあげた「撮影」に関してもスタッフを御すべきは監督の仕事であり、そのことをなし得なかった松本氏は、やはり「監督」としては物足りない、と言わざるをえません。それはまるで作中の使い慣れない変な標準語(普段通りに喋ってくれたらほんとによかったのになぁ、まっつん)と同様の、未熟な感じを観る者に与えているような気がしてなりません。ただ、そんなことはこれから何本も撮っていけば、習熟することでしょう。なにしろ、松本氏はだれがなんといおうと、日本を代表する作り手の一人なのですから。

 と、ここで結んでおけばいいものを、もう一つだけ。松本氏に関して思うのは、彼はもしかしたら「映画の力」とでもいうのか、「映画の魔」のようなものを、あまり信じていないんじゃないか、ということ。

 もう一人の「お笑い」出身の「映画監督」が、いまやその「映画の魔」に振り回されているのとはまるで対照的な資質のようなものを、この「大日本人」から感じたのですが……それは「次回作」でより明らかにされるような気がしてなりません。

(評価:★3)

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