[コメント] それでも生きる子供たちへ(2005/伊=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
第一話、メディ・カレフの「タンザ」は、ラストの詩情に向けて全てが集束している観がある。タンザは淡々と戦闘に従事しているように見えるが、「敵」の、人間としての暮らしのディテールをつい発見してしまう、その視点、着眼点が、平穏な幸福を願う彼の偽らざる心情を漏らす。上官の命令に従って時限爆弾を仕掛けに入った、「敵」の学校。タンザは、ずっとそこから出たくないかのように、教室に留まり続ける。壁に貼られた絵。黒板にチョークで綴られたアルファベット。容赦無く時を刻む時限爆弾の音。椅子に座ったタンザが、河で濡れても脱がずにいた靴を脱ぎ、時限装置の音も消える。静寂。普段からその場所を使う人々の「敵」であるタンザには、この教室で安らぐ事は二重に許されていない(上官の命に反している/暴力の罪を犯そうとしているタンザ)のだが、同時にタンザにとっては、そこに居て安らぎたいと願う場所でもある。このラストは、詩的であるのと同程度に、厳しく現実的でもある。現実の中に一瞬閃く事もある筈の、現実には許されていない詩情。
第五話「ジョナサン」は、ジョーダン・スコットとリドリー・スコット、父娘による合作。映画としての出来が悪い訳ではないのだが、他の監督達が自国の子供達の現状に真摯に向き合っている中に於いては、この作品の姿勢に違和感を拭えない。主人公は、戦場の子供達に何も出来ない罪責感に悩むカメラマン。彼自身の子供時代の、友人達との思い出と、彼がカメラマンとして被写体にしてきた戦争の渦中に暮らす子供達の姿が重なり合い、時代や国を越えた、子供達の友情や生命力への信頼が、彼の中に芽生える。結果、主人公は精神的に甦る訳だが、これは映画作家としてのスコット親子が自分たち自身を慰めているだけにしか見えない。戦場に生きる子供達が実際にどんな毎日を送っているのか、具体的に実感させる映像は殆ど撮られておらず、映像の無力さへの苦悩という出発点から展開した全てを、「純粋な子供時代」という抽象的なイメージに全て回収してしまう、マッチポンプな映画。監督達の住む英国の子供達にも彼らなりの悩みや苦境がある筈なのに、高みから後進国の子供達の境遇を勝手に綴っていく。これは、リドリー・スコットが過去に『ブラックホーク・ダウン』でソマリア人を、撃っても撃っても次々に襲いかかるゾンビのようにとっていたのと表裏一体だろう。ちょっとばかり映画として上手に撮られていようとも、その器用さそのものが唾棄すべきものに思える。
第六話「チロ」(ステファノ・ヴィネルッソ)は空間の活劇、遠近法のドラマだ。石造りの円柱の間をチロが走り回るショットは、その画面の薄暗さの美しさもさる事ながら、建物の示す威厳への挑戦的、撹乱的なアクションとしても印象深い。仲間と強盗を働いたチロが、大人達からは逃れ遂せたにも関わらず野犬に追いかけられ続けるシーンは、街頭でテレビのインタビューに答える大人が「特に幼い子はすぐに犯罪を覚え、野犬のように街に放たれる」と答える台詞とリンクしている。チロは大人達から見れば野犬同然なのだろうが、彼は実際はむしろ野犬に追いかけられる方なのであり、決して心底から嬉々として犯罪を行なっている訳ではないのだろう。カメラワークの運動性や空間感覚に優れたこの作品の、最も記憶に残る映像は、チロが両親の罵り合う声を聞きながら、壁で独り、手で影絵をして遊ぶ場面。壁、行き止まり、閉塞感。その壁の上に、自分の口に銃口を押し込む影絵を作るチロ。ラストでの、遠くで輝く遊具に乗って呼び掛ける友人の声にそっぽを向き続けるチロ。こうした、ショットの構図的、空間的な雄弁さに優れた作品。
第七話「桑桑(ソンソン)と小猫(シャオマオ)」のジョン・ウーは、都会に暮らす中流以上の家庭に生まれた少女にも、時には窒息しそうなほどの閉塞感や、或る種の貧しさが覆い被さってくるのだという事を描いている点を評価したい。この少女ソンソンは、どの作品の子供達よりも物質的には恵まれているが、最も生命力に乏しく、周囲の環境を最も拒絶しているように見える。犯罪を犯していた子供達はそれなりに活き活きした顔を見せていたし、第一話のタンザは、淡々と無感情に戦争に参加していた。ソンソンの激しい拒絶の身振りと表情は印象的だ。また、他の子供達は、この作品のもう一人の少女シャオマオも含め、遊びなり犯罪なり労働なりに参加して、歩いたり走ったりしていたが、ソンソンは、ピアノの椅子や車のシートに座っていたり、床に寝転がっている場面が目立つ。目に見える形で表わされた、「恵まれた子供」の抱く閉塞感。また、脚本そのものは、いつの時代かと思うほどに型通りの人情物ではあるのだが、それがこれほどに泣かせる作品に仕上がっているのは、ひとえに子供達の表情の鮮烈な印象の賜物だろう。小利口な工夫などではなく、カメラが直に捉えた子供達の笑顔に作品の力を託する、というこのストレートな姿勢には素直に感動させられるし、また映画全体のコンセプトからしても、最終話という位置からしても、圧倒的に正しい、と言いたい。尤もそれは、同時に、第一話のタンザが最後に残した虚ろな表情等々をも忘れない、という条件付きではあるのだろうけど。
言及しなかった他の作品も、それぞれ素晴らしかった。だがやはりリドリーの、自分の足許に目を向けない、映画(写真)の中で自己完結させる観念的な姿勢だけは許し難い。これは何も政治的、倫理的な視点だけから言っているのではなく、映画として、現実をどう切り取るのか、という、撮影以前の段階での「フレーミング」の安易さ、その詰らなさと怠惰に苛立ちを覚えずにはいられない訳だ。
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