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[コメント] 題名のない子守唄(2006/伊)

音楽、ショット、編集の見事な三位一体。そして「転倒」や「身を傾ける」というアクションの反復による主題の描写。とはいえ、前半謎だらけのサスペンス調にしたのは、感情移入という点ではややマイナスか。二度目の鑑賞時の方が乗り易い。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







イレーナがテアに絵本を読んでやるシーンで、「また髪の色を変えたね。瞳の色も」という件があるが、イレーナもまた、過去には金髪だったのを、縮れた黒髪に変えている。これは、死んだ恋人の髪に合わせたように思えるし、テアの髪とも同じ髪になっている。

イレーナの暮らす部屋からはアダケル家の窓が覗けるのだが、そのイレーナの部屋の窓枠には、テアのふわふわした縮れ毛のような草が植えられた鉢が置いてある。この鉢植えは、見守り育てる対象として、多少なりともイレーナの母親としての渇を癒す存在として描かれているように思う。アダケル夫人が殺され、イレーナが住み込みの家政婦としてアダケル家に招かれる事になった時、部屋を出ていくイレーナの足許では、空っぽの鉢が転がっていた。もう代用品は必要ない、という事か。

この、代用品、乃至は身代わり、というのが、本作の主題だろう。イレーナは過去、代理で他人の子を産まされ続け、その結果、殺された恋人との間に作った子を探す、という、唯一無二の存在への異常な執着心へと展開する。だがそうして見つけたテアは、結局はイレーナの子ではなく、代用品、身代わりでしかなかったのだ。かつてイレーナを支配し、過酷な仕事を強い、恋人さえ奪った‘黒カビ’は、たまたま首に掛けていたネックレスに刻まれたアダケル工房の名を、イレーナの子が送られた実際の養子先の「代わりに」教えたのだ。

この事実に加え、DNA鑑定の結果という物的証拠まで示され、事の真実を知ったイレーナは、絶望に打ちのめされて昏倒するが、刑務所に送られる前に、テアの許に別れを告げに行く。病院のベッドに横臥し、「誰かに転ばされたの」と、力無く呟くテアに、イレーナは「誰に突き倒されたのか分からない時は、他の誰かを突き飛ばせばいいの」と教える。実際、イレーナは、アダケル家に取り入る為に、その家の家政婦を階段で突き飛ばし、転倒させたのだ。

また、結果的にはアダケル夫人も、イレーナの子を奪った張本人として、恨みの感情すら向けられていた。イレーナのトラウマとしてフラッシュバックする場面で、代理で妊娠させる女を品定めする覗き穴からイレーナを指名したのは、アダケル夫人だった筈だという思い込みや、夫人の裸を見たイレーナが「本当に若い。出産したとは思えません」と夫人の心をこっそりと刺す台詞。挙句、夫人は‘黒カビ’の手で殺される。イレーナを殺す代わりに、殺人犯に仕立てて破滅させる為の「身代わり」として。

テアと別れ、護送車に乗ろうとしたイレーナは、よろけてしまう。「誰か」に突かれたのでも、蹴られたのでもない。むしろ、自分を支える「誰か」、より具体的に言ってしまえばテア≒娘という心の「支え」を失った事によって力を無くしてしまい、身が傾いたのだ。両脇の警護官は、そんな彼女を気遣って支えようとする。

回想シーンでの、大きく膨らんだ腹を抱えたイレーナが、‘黒カビ’に車から突き落とされる場面。アパートの管理人に、仕事が欲しいと告げた後、よろめくイレーナ。とにかく、イレーナが倒れ込む場面が頻出する。そのイレーナは、防衛本能の弱いテアの体を縛り、何度も突いて転倒させ、自分の力で何度でも立ち上げらせようとする。紐を解かれたテアは、怒ってイレーナの顔を叩くが、イレーナは、抵抗する事を覚えたテアを褒める。これは、同じように体を縛られて男たちのなぶり者にされていた自分の過去への復讐でもある。

だが、サーカスで、巨大ケーキに突っ込んだテアは、イレーナが駆けよっても「ママ!」と泣き叫ぶ。この時の、イレーナの顔に広がる虚脱感。テアにとっての母親は、やはりアダケル夫人なのだ。再びあの特訓が始まるが、前回はカラフルに彩られた寝室での特訓だったのに対し、今度は何も無い部屋で、テアは、布団の上ではなくフローリングの床に叩きつけられる。「立つのよ!」と何度も叫ぶイレーナに、テアは鼻血を流しながら「絶対に出来ない」と涙する。この時イレーナは、過去に自分が男たちに「何でもするから許して」と泣きついた事を思い出す。彼女はテアを抱き締める。復讐する事より、誰かに抱きしめられ、守られる事。イレーナにとって、恋人もそうした存在だったのではないか。

この後、幼稚園で友達に突き飛ばされたテアは、イレーナに叩き込まれた「目には目を」の論理に従って、相手の少年に立ち向かい、遂には退散させてしまう。それを見て大笑いして喜ぶイレーナ。だが、この事でテアと友達との距離が縮まったらしく、友達を自宅に招いたテアは、イレーナが話しかけても「友達と遊んでるんだから」と追い払う。この場面から感じ取れるのは、イレーナがテアに特訓を施したのは、テアの為という以上に、テアと自分が周囲の世界に対して立ち向かい、二人きりで生きる事を欲していたからだ、という事だ。

この映画は、激しく切り替わるカッティングに加え、イレーナが息を切らせて走る場面の多さによって、疾走感のある作品になっている。アダケル家の合い鍵を作る為に、家政婦から鍵を盗んで店へと走るイレーナ。忍び込んだアダケル家で管理人に見つかりそうになり、素早く身を隠すイレーナ。隠れんぼをしていたテアが‘黒カビ’に誘拐されたと思い込んで、必死で走るイレーナ。また、彼女が男たちにベッドに叩きつけられる場面や、出産シーンなどで息を切らせているのも、カッティングによってスピード感のある場面に演出されている。

この、疾走感というものは、幾つかのショットで時計が画面に映り込んでいるように、過去、時間というものにイレーナが追いまくられる様を印象づける。最も印象的なのは、序盤での、合い鍵を手に入れようとするイレーナの描写。計画的な彼女は、事前に映画館から掛かる時間を時計で測っていたのだが、合い鍵を作りに走って入った店内は思いの外込んでいる。彼女が引いた番号札に順番が回って来るまで時間が掛かる事を知らせるデジタル表示の数字と、それに被さる、巨大なアーミーナイフの刃の、時計の針のような動き。時計の針のイメージは後の場面で、かつてイレーナが‛黒カビ’を刺したハサミの形状とも重なってくる。

こうした個々の場面で閃く編集の巧みさは、ショットの構図の寄与する所も大きい。イレーナがアダケル家に忍び込んだ場面では、管理人が部屋を見回る姿が奥に見え、それと、口を押えるイレーナのアップとが、遠近感を強調した構図を成すショットが挿み込まれる。或いは、アパートの螺旋階段での、頭上に太陽のレリーフが見える仰角のショットと、イレーナの部屋での、頭上の電灯の丸い笠との類似。イレーナの出産シーンでの、外で鳴らされている激しいロック音楽に合わせて次々と切り替わるショット。厳粛である筈の出産という行為は、ここでは欲望に塗れた男たちに囃し立てられるような、冒涜的な場面にされている。

だが、こうした激しいカッティングばかりでなく、例えば冒頭、温かな色に染められた回想シーンで、恋人から両手いっぱいの苺を差し出されたイレーナが、はにかみながら笑って苺を摘む瞬間、現実のイレーナが、暗い部屋で独り苺を摘むショットに切り替わる、といった、センチメンタルなマッチ・カットの情感を、もっと強調した方が良かったようにも思う。イレーナの恋人にしても、何か無色透明な清潔感だけが漂い、印象が薄い。結果、「自分の受けた暴力の為に罪びととなった女の再生」という主題が、展開の速さにやや流され気味なのが惜しい。

とは言え、「身代わり」という主題はきっちりと描き切っている。冒頭、仮面を着けた女たちが裸で立たされ、覗き穴から品定めされる場面が出てくるが、ここでは、女たちは顔や人格ではなく肉体で評価されており、彼女らを買う人間も、壁の向こうに顔を隠している。互いに顔の見えない、匿名性の切り返しショット。しかしラスト・シーンでは、出所したイレーナと、大人の女に成長したテアが、互いの顔を確認し合う切り返しショットで締められているのだ。他の誰でもない、固有名を持った存在として相手と受け入れ合う。テアの、あの一点の曇りもない笑顔は、その一つのショットが、この物語に於ける、イレーナへの最後の答えとなっているのだ。

本作の最大の功労者は編集者のマッシモ・クアリアなのかも知れないが、音楽の、基本的に弦楽器のみで緩急自在なエモーションを織り成す技にはやはり感心させられる。センチメンタルな雰囲気から、神経質で攻撃的な響きまで、幅広い音を聴かせるが、弦の響きという一貫性によって、全てをイレーナの感情の振り幅として描き切っているのが見事。僕が本作を二度鑑賞したのも、物語がどうとかいうよりは、編集と音楽によるリズム感をもう一度味わいたかったからだった。

(評価:★4)

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