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[コメント] ブラック・スネーク・モーン(2006/米)

「引き摺る」物語。鎖の鳴る音、ブルースの歌声、そして男と女の関係性が織り成す、矛盾と逆説。引き摺られ、反復される記憶。弁証法的な救済の物語。「黒い」蛇が暗示する、アメリカという国。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







鎖が引き摺られてジャラジャラと鳴る音が、蛇の這う音のアナロジーとなり、更には、蛇が這いまわるイメージが、痛みを伴う記憶を「引き摺る」ことのアナロジーとなる。

レイがラザラスの許から逃げ出そうとした時、彼女を縛る鎖が真っ直ぐに伸びて「ガイィンッ」と響く音。この音が、ラストシーンでは、レイの身と心を苛む性依存症への戒めの音として働き、レイに、これまた精神的に不安定な恋人のロニーを支える力を与える(ロニーが車内で不安に駆られた時には、蛇の唸る音が効果音として入る)。この鎖の音が、なぜ救済の音となったのか。

レイは、鎖を振りほどいて逃げることが叶わないことや、ラザラスを誘惑して逃がしてもらうことも出来ないことを悟った辺りで、鎖を自らの身に巻きつけて、恍惚とした表情を浮かべる。つまりこの鎖は、男の肉体の代用品になっているわけだ。依存症とは、何かに縛りつけられるということ。レイは自分から男を求めていたように見えたが、男の肉体に自分を縛りつけずにはいられなかったのだ。

ラザラスは、レイが家の中を自由に歩き回るのに充分な長さの鎖で彼女を縛る。この鎖が伸びきって鳴る音は、自由の限界を告げる音であるのと同時に、何かに依存して生きることの限界をも告げていたのではないか?

いつしかレイは鎖に慣れて、却って心の安定を得ているように見える。体の自由が利かない分、自分の衝動に振り回される状況からは自由になったのだ。だが、ラザラスは、人は自分が望むようにしか生きられない、といったことを言って、彼女をあっさりと解放する。このシーンでは、解放されたレイの望みに応えてラザラスが熱唱する外で、稲妻が鳴り響いている。この稲妻の光が、レイが父親から受けた性的虐待のトラウマの象徴である、ライターが着火するイメージを連想させ、レイはラザラスに身を寄せる。束縛と依存と保護は、分かち難い三位一体を成している。

この逆説性は、冒頭でブルースについて語るインタビュー映像で語られていた、「愛しているが故に裏腹なことをしてしまう」といった言葉を思い起こさせるものだ。この映画では、鎖はイメージである以上に、シャラシャラと鳴る音、鋭い警告の音、といった音響的なシンボルとして描かれている。だからこそ、この鎖に込められた二重の意味は、ブルースという音楽、更にはそれが歌う男女の愛と、それこそ鎖のように結びつけられているのだ。

「Black Snake Moan」という題名の内、「Snake Moan(蛇の唸る声)」についてはこうした所。補足すれば、「Moan」には、死や悲運を嘆く、愚痴を言う、といった意味もあるらしい。では、「Black」である意味とは何か?勿論、ラザラスが黒人であることと絡んでいる。白人であるレイの両親は、性的な慰み者にする父と、それを見ぬふりをしていた母、という、レイにとっては束縛の苦痛だけを与える存在だったようだ。そんな彼女に保護者として現れるラザラスが、殴られて倒れていたレイのことをなぜ警察に通報しなかったのかというと、黒人が、怪我をした白人女と一緒に居るなどというのは余計な疑いを呼びかねないから。そうした、法から「保護」されない関係であるレイとラザラスが、疑似親子的な絆を結ぶ所に、この映画の現代性があると言えるだろう。

ラザラスはレイに対してマッチョな父性を示しているように見えるが、一方では、彼女の恋人であるロニーが自分に銃を向けてきた時には、「撃ってみろ!男であることを証明してみろ!」と挑発する。このシーンを見れば分かるように、これはアイロニーであり、ロニーの幼稚なマッチョイズムを諫めているのだ。これはロニーが、軍人として出征したにも関らず、周囲の音を聞くとストレスで体に不調が出てしまうせいで戻ってきてしまったこととも絡んでくる。

まず「周囲の音」ということで、ここでも音がファクターとして働いているわけだが、それ以上に、白人であるロニーが国の戦争に参加して出て行って挫折したことが重要なのだ。法で保護されてこなかった黒人であるラザラスが、軍人になれなかったロニーに対し、力の誇示によって男としての矜持を示そうとすることの無意味を悟らせるということ。これは、国そのものがマッチョイズムに傾いていたアメリカへの、痛烈な批判と言っていい筈だ。

画的にも、確信犯的に「カッコよさ」を狙ったショットが幾つもあって愉しめる。特にタイトルの出し方には痺れる。オープニングでは、レイが後ろのトラックに中指を突き上げるショット。エンディングでは、畑でラザラスの手に区切られた鎖に反発する姿。この二つ、画的に構図が優れているのみならず、最初の方では孤独に反抗する例の姿、最後には、ラザラスからの束縛に反抗しつつも孤独ではないその姿、という、レイの性格の一貫性と、他者との関係性の変化が同時に示されているのが印象的。

他にも、ラザラスの歌を聴くレイの、身を傾けて座る姿と、その背後で光る稲妻、というショットの、古典的なまでの決まり具合。こうした構図作りが、どこかアメリカという国への郷愁の香るこの映画には見事に合っている。

プロットの点でも、鎖に繋いだレイを隠そうともしないラザラスや、その鎖を意外に簡単に外してしまうこと、虜囚の身であるレイとの心理的な駆け引きもなく、偏執的な正義感に駆られた男の歪んだ執念、といった面が執拗に描かれるでもなく、白人女を鎖に繋ぐという行動が、周囲から誤解されもせず、そこから悲劇が生じるでもない、奇妙に穏やかな物語が、却って意外。黒人少年の名が、奴隷解放の立役者たる「リンカーン」である事に注目すべきなのかも知れない。

久しぶりに見たクリスティーナ・リッチは、安達祐実土屋アンナを足して二で割ったような印象で、なんか良かった。

(評価:★4)

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