[コメント] ブレイブ ワン(2007/米=豪)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ブレイブ ワンを観た。この題名「勇気ある者」なのか「刺客」なのか辞書的にはどちらにも取れる。
公園で婚約者と犬の散歩をしていた二人は殴る蹴るの暴行を受け、入院、婚約者は死亡。彼女は重態。 事件後、このトラウマとの葛藤の中で、偶然不法の拳銃をてにいれる。 また、偶然身を守るために使ってしまうことから彼女は「ブレイブ ワン」になっていく。
前作「フライトプラン」が何ともやりきれないほどの駄作だっただけに、ちょっと心配したが、 葛藤する人物を演じさせたらおそらく最高の女優であろうジョディ・フォスターはその存在感を示した作品となっていた。 暴力によるトラウマ。 偶然とはいえ人を殺すことから、「正義の刺客」になっていく過程の葛藤。
この映画は、「ブレイブワン」という題名を「勇気ある者」と取るか「刺客」ととるかという 彼女の行動から道徳的にこの行動が許されるか許されないかということを描いた映画としてとるなら つまらないものなのだろう。 なぜなら、人は殺せば殺されるというのが社会のルールとなっているからだ。 報復という手段としての殺人も法律の手段としての死刑も終身刑も命をもって償うことを求めている。
この映画を観て、彼女の報復、正義の裁きがいいか悪いかではなく 「銃」という道具を作ってしまった人間はけっしてそれを使わずにはいられないということ。 それを使わずには終われないのが人間だということを示している。 それは戦争に使う武器しても同じなのである。 原爆も作ったら使わずにはいられない。それが長崎広島の原爆投下だった。 銃もまた同じ。 日本でも銃が合法化されれば多くの人間が持つだろう。 そして、持つことで使うだろう。 結局、いったん法律で認めてしまえば、禁止できなくなるのである。
その意味でこの映画は、人間のもっているどうしようもない宿命を描いたといえるだろう。 またそれによって、翻弄されている人間社会とその個人を描いている。 そんな中にあって「道徳」的であろうとするのか「倫理」的であろうとするのか その間でゆれる人間の姿を私は観ていた。 それは、定義により「道徳=やってはいけないといわれているからやらない」 「倫理=やりたくないからやらない」 の違いがあるからだ。 その葛藤する人間の姿は 久しぶりに「羊たちの沈黙」のジョディー・フォスターを彷彿させた。 似たような匂い、存在感、マッチョではないにも拘らず 内に秘めている強さを表現していた。
ラストは映画としては至極まっとうに終わったのだと思う。 正義の裁きに手を染めてからは彼女は「道徳的」ではなかった。 しかし、ラストでは「倫理」さえも破ることで刑事を撃ってしまう。 犯罪は闇に消えても、ここに来て初めて彼女はもう元にもどれなくなってしまったのだ。 元の自分に永遠に戻れなくなってしまったのだと感じる。
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