[コメント] 聖杯伝説(1978/仏=伊=独)
「映画とはいったい何か」という問いを思考するにあたって、実に多くの示唆を与えてくれる映画だ。それは「空間」と「身体」の問題として言説化されうるものであろうが、しかしそれについて論理的かつ詳細に論じることなど私には到底手に負えない事柄なので、以下思いつくままいいかげんに述べてみたい。
書割のセットにしても演技にしても演劇的な方法論の採用が目立ち、それはあるいは韻文による騎士物語である原作との距離の取り方として論じられるべき問題なのかもしれないが、いずれにせよ、それにもかかわらずこれは紛れもない「映画」である。それは何も「ネストール・アルメンドロスの撮影が端的に美しいから」とか「アニメーションが挿入されるから」といった理由があるからばかりではない。
それについてはいかようにも語ることができると思うが、とりあえずここでは「この映画には『フレーム』に対する問題意識がある」という云い方をしてみよう。それは決して演劇が持ちえぬもの、すくなくとも演劇にとっては原理的な問題ではないだろう。
たとえば、序盤におけるルキーニと彼の母親の会話の場面。この過保護の母親は騎士に魅せられてしまった息子を案じて半ばヒステリックに彼に話しかけるのだが、彼はそれを無視して「ごはんにしよう」と独りごち、フレームの左側に移動する。その彼を追ってカメラもややパンニングすると、そこにはもう準備の調えられた食卓があり、ルキーニはほとんど瞬間的にと云ってもよいほどのスムースさで着席する。この場面はルキーニの奇抜なキャラクタおよび彼と母親の演技の呼吸の絶妙さもあってきわめて高度なギャグとしても成立しており、私は非常に笑わせられたのだが、それ以上にここにはフレーム(とそれに必然的に付随するオフ・スクリーンの問題)に関わる映画的な驚きがある。
そう、メタ・レヴェルのギャグに貫かれた異形の活劇でもあるこの奇妙な映画には、その「奇妙さ」とは無縁の「映画」に根ざした驚きがあるのだ。この映画の「奇妙さ」は、決闘などのアクションほかあらゆる点において認められる「簡潔さ」と、出演者の台詞や歌に現れる「饒舌さ」の意図的に仕組まれた按配の悪さに起因する、といった見方もできるだろうし、それを映画における「様式性」の問題に還元することも不可能ではないだろう。しかし、この映画の「映画性」はあくまでそのような「奇妙さ」とは別のところで保証されていると私は考える。だが、同時にその「映画性」はその「奇妙さ」と出会うことによって初めて生々しく露呈されることになっているのだ。
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