[コメント] 4分間のピアニスト(2006/独)
映画を見終った人むけのレビューです。
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冒頭、薄暗がりに覗く足許が首吊り死体のそれであることが判明しても、ジェニー(ハンナー・ヘルツシュプルング)は全く動じず死体のポケットから煙草をくすねる。事によったら彼女が縊った死体なのかと思わせられるくらいの冷淡さ。受刑者アイゼ(ヤスミン・タバタバイ)から、同室なのに何か気づかなかったのかと問われても「寝ていた」と冷たく答え、あんたが吸っているタバコも死体から盗んだんだろうと言い当てられても動じる様子はない。後にアイゼと同室にさせられたジェニーは、「あんたがいちばん得意なことだけは許してやらない」とアイゼに宣告された際、「ピアノを弾くこと」と答えるのだが、相手の答えは「寝ることだよ」。ジェニーは殺人罪によって刑務所に収監されているのだが、その刑務所の受刑者仲間の中にあってさえ「社会性」を拒絶するのがジェニーなのだ。
また首吊り死体はクリューガー(モニカ・ブライプトロイ)の、過去に友人がナチスの収容所に於いて絞首刑にされた光景を目撃してしまったトラウマを描いた回想シーンにも挿入されているのだが、ジェニーはそうした過去の不幸にも関心がない。自分を犯した養父(ヴァディム・グロウナ)がクリューガーの家を訪ねていたことを知って激昂したジェニーは、クリューガーもまた父の差し金なのではないかと疑い、詰る。その言い訳のようにしてクリューガーは自分の過去を記録したファイルを差し出し、死んだ友人には才能が有った、生きていればそれを活かす為に努力したかも知れない、とジェニーに説教をする。一方、ジェニーは、クリューガーが死んだ友人について「こうだったのではないか」と勝手に想像することなどどうでもいいのか、それとも、クリューガーの「その怠惰なケツをさっさと上げなさい」に発奮したのか、その心情が曖昧なままに演奏会場へと向かう。
ジェニーはその、最後の演奏シーンに於いて、彼女自身の才能を開花させる為に、クリューガーに禁じられていた、ジェニー自身の音楽を奔放に奏でる。この反逆は、だが、ジェニー自身の可能性の芽を、恩人であるクリューガーにさえ潰させないという意思表明として、或る意味では最大の報恩であったと言える。だからこそ、クリューガーもまた聴衆の拍手の渦の中で幸福感を覗かせる表情をしていたのだろうし、ジェニーもまた、「あんたは皆にお辞儀させたいだけ。あたしは絶対にしてやらない」と言っていたお辞儀をして見せるのだ。その、手錠をかけられながら上方を睨むようにしてやってみせるお辞儀の、凶暴な誇り高さ。アイゼが気にかけていたらしい自殺者と、クリューガーが(同性愛者として)今も愛し続けているという友人。共に、女同士の緊密な関係性だが、ジェニーは、一度はクリューガーに懐きかけてはいたが結局は、それを敢然と拒絶する。ジェニーは、老女教師の過去や悔恨、コンクールの成功云々の夾雑物などどうでもよく、ただひたすらに「自分の音楽」を爆発させるという一事の他には目もくれないのだ。
人はよさそうだが凡庸な太った看守ミュッツェ(スヴェン・ピッピヒ)は、ジェニーはおろかクリューガーからもかなり邪険な扱いを受けている。最後はジェニーを逃がすという大事な役目を果たしはするがそれまでは、天才的なジェニーの才能の開花を私怨によって潰そうとしている。そんな彼が、全篇を通じて殆ど薄汚い脂肪の塊としか扱われていないのが爽快。彼の、娘に絵を描かせてクリューガーに贈ろうとする行為には、いかにも善人らしい愛想のよさが表れているし、「ピアノの購入の為に私も寄附をしたんです。それなのにあのアバズレがピアノを独占するなんて」という彼の言い分は、常識的には全く正当だ。だがピアノは、ジェニーのような唯一無二の才能の為の道具として存在することが優先されるべきであり、ミュッツェのような凡俗の手が馴れ馴れしく触り、権利を主張することなど、社会的には正当であろうとも、芸術の絶対性の前では無に等しい。だからこそクリューガーも、ミュッツェの娘の絵などより、「正式なお辞儀」によって敬意を表することの方が先だと告げるのだが、ジェニーはそのクリューガーの、音楽に対する恭しさすら唾棄する。なぜなら彼女自身が自分の音楽を所有しているからだ。
刑務所で雑誌の取材を受けたジェニーが、「いつもされているから」とわざわざ後ろ手に手錠をかけられた状態でピアノを弾いてみせるシーンで「4分間」の演奏という条件がつけられていた時点で既に結末(コンクール最終審査での反逆)が予想できてしまうのだが、その最後の演奏シーンで、ただ激しく鍵盤を打つのみならず、直接弦をはじく内部演奏まで加え、あそこまで大胆かつ自由にやってくれるとは予想していなかったので、インパクトは強かった。また、ピアノに対して後ろを向いて演奏する曲芸は、養父がジェニーを「モーツァルトにしたがっていた」というそのモーツァルトが行なったという逸話のある芸。それを、手錠をかけられた状態で行ない、そのときに弾いていた音楽が俗だという理由でクリューガーから平手打ちをされるという徹底的な反逆性によって、最後の演奏は完璧に予告されていた。その演奏後の聴衆の拍手は、起こらない方がジェニーの反逆心の表現としては適切だったかも知れない。だが、才能を有したジェニーの「可能性」を告知し、それが法への従属や、恩人との個人的な関係など突き破るものであることを十二分に描く為には、やはり拍手による歓迎は必要だったと言えるだろう。
ジェニーが、養父の言うように、恋人の罪を肩代わりして罪を引き受けたという話が本当なのかどうかは、最後まで判明しない。だが、この疑惑が加わることによって、法に従って刑に服するというジェニーの立場にもまた、法による裁きへの抵抗と反逆の継続である可能性が与えられる。ジェニーは、かつて悪阻が起こったときに、逃げる為の方便だと疑われたせいで赤ん坊を死産してしまった、という過去を話すときだけは弱さを滲ませるが、その父親である筈の恋人のことを愛していたのかも不明だ。彼女が実際に彼の罪を肩代わりしたと明確に示されてしまえば、その恋人がジェニーの拠り所としての意味を得ることになるだろうが、その恋人の存在は、養父が「ロクデナシだ」と語る言葉以外は殆ど無化されている。ジェニーの拠り所は、人間関係の中には置かれず、見知らぬ聴衆の拍手という形で示される「音楽」以外にはない。
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