[コメント] いのちの食べかた(2005/オーストリア=独)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ヒヨコが機械によってマシンガンのように排出されて籠に投げ込まれる様子には、「ヒヨコ、大丈夫か?」と心配させられると同時に、コミカルな可笑しみさえ感じてしまう。乳牛たちが乳房にチューブを着けられ、円形の機械の中をゆっくり回転していく場面では、牛たちの、装置の陰に首から先が隠れた「顔のない」様に、何とも言えない気分になる。
皮肉な事に、死んだ後に工場で加工される生物に、却って、瞬間的に生気が見えたかと錯覚してしまう場面がある。逆さに吊られて運ばれる豚の顔に、橙色の照明が当たった時に初めて、豚の顔に凄惨さを覚える。魚が、腹部を割かれて内臓を吸引される工程での、口が開いてビクビクと震える動きは、生きて泳いでいる場面よりも生々しい。唯一、殺される様子が映されていた肉牛が、頭部に電気ショックを受けて倒れた後、その体がヒクヒクと動くのは、未だ死にきれていないのか、機械の振動で揺れているのか判然とせず、観ていて動揺させられる。
黄色い花畑に黄色い飛行機が飛んでくる、という幻想的なショットは、この飛行機による農薬散布で終わり、続くショットでは、枯れて褐色になった花々が処理されている。農薬散布の車が、ロボットの長い両手のようなものをゆっくりと伸ばしていく様子や、突然、樹を高速で揺する機械、鶏を捕まえてベルトコンベアーに乗せていく捕獲機械など、合理性と効率のよさに貢献する機械の形状と動きとが、図らずもシュールな面白さを発揮する場面が次々と現れるという点で、この映画は機械の映画だ。
植物や岩塩の採集が、生き物の登場する場面と同等に扱われている事もまた、撮影者側での価値判断を控える姿勢が見てとれる。無機物である塩から人間に至るまで、優位を与えられている被写体は特に存在しない。
以前に観た、神経科学を特集した或るテレビ番組で、「ヒトの脳の巨大化は、栄養効率のよい肉食を始めたからだ」という学説が紹介されていた。この映画の終盤、肉牛が機械的に解体されていく様子を観ながら、その学説の事を漠然と思った。
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