[コメント] ぜんぶ、フィデルのせい(2006/伊=仏)
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知れたことではあるが、結局、一個人や一団体の支配するかぎり何らかの「夢」なり「希望」なり「欲求」なり「野望」なりで物事は動いてゆく。乱暴に言えばそれらは全て同じなのだ。それがいやなら、ふた昔前なら「コンピュータによる無機質な支配」がその代わりを為したろうが、もはやそんなものは夢物語だとは子供でも知っている。だからアンナの家族も、それなりに自分を満たしてくれる「理想」の人を探す。
しかし、正直なところ誰もを安心させてくれる存在など居やしないのだ。イエスもフランコもカストロもおのれの理想と敵とを持っていた。だから多少に関わらず、彼らに賛同する人々は彼らを祭り上げたが、誰しもにとって都合のいい支配者なぞ当然居るわけがない。だからアンナは小さい頭で判断する。彼女の父母すら、同志感覚で結びついていながら内部分裂を起こすのだ。国の事なんかに関わっていられない小さな彼女は、彼女の内部で革命を勃発させる。彼女は自らミッションスクールを出て、もっと沢山の王様達がひしめいている学校を目指すのだ。それこそが自分の王権を育む道だと、知ってか知らずかアンナは生徒達の輪に足を踏み入れる。順応しやすい弟よりは、彼女にとってそれは冒険だったろう。
だが、ジュリー・ガヴラスは極めて単純な解決法としてアンナの行く道を決める。それは過酷だが懸命な解決法だろう。彼女すら宗教学の秀才として、教師達の教える解答の代弁者となっていた。その道を捨ててあらゆる思想の渦巻く場に身を投じる。それは、ガヴラスの何事にも囚われない生き方の勧めだろう。自らの「王」たれ。その上で他者と交われ。普遍的なことを、彼女は語っているのだ。
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