[コメント] 黄金の河(1965/インド)
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本作品では、混乱した社会情勢の下、人々の目の前に広がる耐え難い苦難や不安が、ある一つの悲劇の形をとって示される。主人公の周りで起こった一連の悲劇はただその一例に過ぎない。物語の後半、二年もの身柄拘束から解放された主人公が放つ「自分も有罪だが、他の者もまた有罪だ」という発言もその趣旨からでたものと解すべきだろう。
この根深い苦難や不安が闇という言葉によって象徴的に描写されているのだが、そこで重要な役割を果たしているのは主人公の友人である。そもそも闇という言葉を劇中使うのは彼である。また彼は、失意と狂気に苛まれ自殺しようとする主人公の前に忽然と姿を現し、不敵な笑みを浮かべながら「夜はどれだけ更けたか」と問いただした上で、主人公に官能を教えようと歓楽街に連れ出す。その言動や姿はまるでファウストにおけるメフィストフェレスだ。彼の酒に関する言動が『理屈、論争と物語』における主人公=リッティク・ゴトクのそれと酷似しているのも興味深い。本作品の中で突出した存在感を示しているキャラクターである。
その友人と酔っ払った主人公がタクシーで夜の街を移動するシーンも良いが、その後の妹の自殺とそれに続く主人公の慟哭には凄まじい迫力があると共に緊張感が漂っている。これがあるからリッティク・ゴトクの監督作品は捨て置けないのだ。照明を落としたセットの中では、全体を捉えたショットは少なく、特定の部分のクローズアップショットがモンタージュされることで強い緊張感が生まれている。また主人公の近眼を建前にフォーカスを暈かした主観ショットも効果的だ。時折断片的に映し出される妹に言葉はなく、ただ兄を凝視しているであろう視線と、刃に鈍く光が反射したのち虚しく宙に放たれる視線があるのみである。この際、主人公はなお酩酊を装う。戸外に出た後の重苦しい足取りや暗闇の中に浮かんでは消えそうになる主人公の表情が素晴らしい。深い闇が主人公を飲み込もうとしているのである。そして、突如として闇夜に響く主人公の激しい慟哭。酒に身を任せ現実逃避していた主人公に不意に突きつけられる惨い現実がコレである。逃げ場などどこにもないわけである。
しかし、リッティク・ゴトクは希望を失わない。むしろ黄金の河という言葉の下に人々に光を与えようとしている。それは、エンドマーク直前の言葉に待つまでもなく、甥の無邪気な問いかけに戸惑いながらも答え、せかす甥に手を引かれて覚束ない足取りで彼方へ向かう主人公の姿に表れているのである。
なお、本作品でもリッティク・ゴトクらしい特徴のある音が聴こえてくる(例:汽笛、銃声、エコー、男女の囁き等)。中でも森の中で繰り返される妹と義理の弟の囁き声による愛の告白が印象的だ。この男女の対話において、言葉は真正面から受け止められることはなく、人気のない森であるにもかかわらず重要部分については囁き声でなされている。この演出によって、告白シーン全体にそこはかとない官能性が醸し出している。
もっとも、他の作品では良く観られる奥行きのある構図は陰を潜め、その代わりにパンが目に付く。クレーン撮影も適宜使っており、全体としてキャメラが良く動くという印象を受けた。
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