[コメント] 幻影師アイゼンハイム(2006/米=チェコ)
映画を見終った人むけのレビューです。
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イリュージョンとしての映画という意味では、幻想性の裏側に仕掛けられたトリックが全くお粗末な出来。しかもそれが物語の根幹に関わっているという点で致命的。「意外な真相」とか「ラストの衝撃」などと予め聞いてしまうと、頭のネジを二三個外しておけるような手品でも使えない限り、ソフィがアイゼンハイムと二度目の駆け落ちを計画し始めた辺りで、結末を察知しないでいることの方が困難だ。
ソフィが皇太子に殺害されたかのように装われたシーンが、目撃者の視点から撮られ、皇太子の犯行を決定的に確信させる箇所が隠されていることや、ソフィの遺体を調べようとする警察官たちに対して医師が「見世物ではありません」と制止する気遣い、ソフィの死をアイゼンハイムが嘆くシーンが極端に少ないことなど、最も肝心な「ソフィは実は死んでいない」ということを予測させる箇所が多すぎる。ソフィが、自身に「護衛」と称した監視役が付いていることをアイゼンハイムに語る台詞があることからしても、アイゼンハイムがそれを逆手にとり、ソフィとの口づけを皇太子に報告させる策略を用いることも容易に予想がつく。
ここは、後でウール警部に回収させる為の伏線を観客に見せておくよりも、むしろソフィが死んでいることを確信させるようなシーンを用意して、それを後から見事なアイデアで覆すという方法が採られて然るべきところだ。ラストでウール警部がフラッシュバックで気がつくシーンの殆どで、完全にリアルタイムで仕掛けが見えてしまう。
尤も、アイゼンハイムが医師に化けていた仕掛けや、ソフィが皇太子に薬を飲ませた仕掛けは分からなかったのは幸いだった。こうした、何でもない光景として映じるシーンの裏にトリックがある、という手法をもっと活かすべきだっただろう。観客にバレバレな箇所が多すぎる反面、最後にウール警部が全てに気づくには、その推理の根拠となる材料がやや乏しく、シーンの持って行き方が強引にすぎる。
要は、奇術をテーマにしているくせに、観客を騙すことでも、仕掛けの巧みさで驚かすことでも、及第点に達していない。却って、最後の落ちが予測できてしまうせいで、ソフィの死にまつわるドラマ(これも大して巧く描かれているわけではない)にも全く感情移入できない。どうせ後から全てが覆されることは目に見えているのだから。知恵も覚悟も足りない人間が他人を騙そうとすれば碌なことにならないという見本だ。
アイゼンハイムが交霊ショーによって民衆の支持を得、最終的には権威を振りかざす皇太子を葬り去る筋書きや、君主政とか民主的とかいった単語が台詞の中に込められていることで、幻影による革命という作品のテーマが見えてくる。交霊術のトリックと思しきものとして警部に示されるのが、映写機を用いた仕掛けであることで、奇術と映画が共に等しく「イリュージョン」というキーワードで結びつく。だが、原作通りにしたのか何なのか知らないが、どうせなら、夜の街のあちこちに「亡霊」が出没するといったような、視覚的にも面白いシーンを幾つか仕掛けてくれても良さそうなものなのだが。
皇太子レオポルドは、横暴な性格や、女性に乱暴を働くのを隠蔽するために過去に一人転落死させている、といった設定によって、その最期にも自業自得という意味合いが込められてはいるのだが、反面、観客の目に触れる限りでの彼は、それなりに知性的で魅力のある人物でもある。皇太子の身でありながら、平民を装ってアイゼンハイムの劇場に現れるといった行動力も、好ましく見えてしまう。彼が無実の罪で自殺に追い込まれる結末に充分納得のいくような描かれ方とは言えないだろう。彼が皇帝を退位させようとしていた行動にしても、レオポルドの言う「国を救おうとしていたのだ」という言い分が妥当なのか不当なのかは、皇帝の人物像がまるで見えないせいで不明なままだ。
第一、アイゼンハイムとソフィによる、身分の差を越えた恋の成就、という結末にも表れている、イリュージョンによる民主革命という面も、要は皇帝の権威を利用して皇太子を追い込んでいるのであるし、しかもそれが、皇帝の座の維持という目的に適う結末であるのも、何だか矛盾しているというか、中途半端というか、モヤモヤの残る、スッキリしない落ちだ。
死んだと思っていた愛する者が実は生きていた、という「意外な結末」は、過去に、全く奇術やら心霊などと関係のない映画で、本作などよりよほど見事に騙し、かつ感動させてくれた作品があった。ネタバレになるので紹介できないのが残念だが。何か仕掛けがありそうだという見方をされてしまう本作のようなものの場合は、むしろ詰まらない小細工などしない方が良いのかもしれない。『プレステージ』のように、「視覚的な嘘」についてメタフィジカルに突き詰めているわけでもないし。
アイゼンハイムが手品を使って物乞いの子らに小銭をやるシーンや、二羽の蝶がハンカチを運んでくるシーンなど、温かみのあるシーン、幻想的なシーンが勿体ない。宝石の嵌められた皇太子の剣や、アイゼンハイムがソフィに贈った、ハート型にすると開くペンダント、警部への友情の証しのように最後に贈られた、オレンジの木の仕掛けを記したノートなど、魅力的な小道具の使い方も好ましい。これらに加え、ウール警部の人物造形がこの映画を愛すべきものにしているだけに、最初からバレバレのチープなトリックによって予め作品全体が覆されてしまっていたのが悲惨だ。
アイゼンハイムがトリックによって、ソフィと自分の姿をこの世から消してしまう結末は、少年期に駆け落ちしようとし、追っ手から身を隠すシーンで、ソフィに「私の姿を消して」と請われながらもそれを為し得なかったのを、修行を経て成長したアイゼンハイムが実現するところに感動があるのだが、そこを強調するような演出が無いのもよく分からない。色々と取り逃しているものが多い作品。
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