[コメント] 崖の上のポニョ(2008/日)
それはまるで、溢れかえるイメージを無思慮に消費するよう大衆をコントロールする先進資本主義社会の企業戦略を体現しているかのようだ。与えられるものをそのまま受け入れることが「子供向け」だというのだろうか。むしろ、考えさせることこそが「子供のため」に必要なのではないか(別に啓蒙せよと言ってるのではない)。「理屈抜き」が「子供」という純粋さの象徴へと結びつけられ、翻って「理屈っぽい」ことがあたかも悪徳であるかのように仕立て上げられ、作品を批評することがつねにすでに牽制されている。
「子供向け」を破綻したプロットの免罪符にしてはならない。
そして、同様に設定やプロットの甘さのみをあげつらうことも不十分である。
むしろ、批評の目が向けられるべきは、そのような破綻したストーリーを覆い隠す/の上でのみ成立しうる充溢するイメージである。
宮崎駿が長年培ってきたアニメーション(=運動)表現、その作られた「リアルさ」が破綻したプロットを覆い隠す。宮崎が描写する「運動」は、リアルな運動「として」我々に刷り込まれている。他の方々が指摘するように、この映画は狂気に満ちている。しかし、その狂気は、リアルだと思い込まされているリアルさ、本当のリアルさを超えてリアルだと感じられるリアルさによって覆い隠されている。そのリアルさは、主観の内部に生起した表象と外界の客観との一致という、そもそも超越的視点からしか確認できないようなものではなく、主観の内部に蓄積された虚構のリアルさとの一致であるが故に、よりリアルに感じられるのである。実際には、リアルでないものがリアルだと感じさせられている。だからこそ、この狂気に満ちた映画(この過剰なるイメージそれ自体も狂気であるのだが)を見た観客は、ためらいもなく「ポニョかわいい〜」と言えるのである。
そして、そのような「リアル」なイメージだからこそ、プロットを放棄しえた。通常ならば、首尾一貫したプロットが映像のリアルさを補強する。そして、同時にそのプロットが映像を制限しもする。しかし、この作品ではプロットは必要最小限にまで還元され、過剰なまでのイメージで押し通す。このことがまた映像の制約を解放し、さらなるイメージを溢れ出させる。それを可能にするのは宮崎の映像表現に他ならない。「リアル」な映像を作り出せるが故に可能な力業と言っても良い。そうして、プロットに縛られること無く、宮崎は思うがままにイメージを描き続けるのであり、観客はその「リアル」なイメージに飲み込まれ、その快楽へと身を任せ、思考を放棄する。
この映画は、思考を必要としない/させないという意味で「子供向け」かもしれない。「子供」としての消費者、考えることを望まず、快楽だけを求める消費者に向けた商品という意味において。それは決して「子供のための」映画ではない。
しかし、上述のことを可能にしたこと自体は驚嘆に値する。
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