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[コメント] イキガミ(2008/日)

「生き神/逝き紙」。過激に戦中的思想を取り込みながらも、同時に、人の生き死にで感動を演出する風潮への批判をも内包した、シニシズムの映画。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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上方からの監視カメラ視点のショットが、「神」のように下界の人間たちの生死を左右する者の存在を窺わせ、懸垂式モノレールの車内からのショットは、街を眼下に浮遊する魂を思わせる。ラストシーンでは、イキガミで逝った兄から移植された角膜で視力を取り戻した女性が、兄の残した部屋の窓の向こうに桜を見つける感動的な情景が演出されるが、カメラがその桜の下へと降っていくと、そこでは小学生への予防接種が行なわれている。この中の何%かの子供に、後に死をもたらす薬物が注射されるのだ。桜という日本的な美への、両義的な演出。感動の裏には、理不尽な死という悲惨が隠されているのだ。

この「予防接種」という建前は、思想的な「予防」措置の暗喩でもあるだろう。実際、この映画が描く社会は、思想的な逸脱に対して、極端に潔癖な反応を示すのだ。

石井課長(笹野高史)は言う。「人々は感動的な物語に飢えている。それによって金を稼ぐ連中もいる。結構な事じゃないですか」。この台詞は殆ど、その直前に田辺(金井勇太)の絶唱に感動していた観客に冷や水を浴びせるような発言だ。『イキガミ』は、反『イキガミ』的な視点を、物語の原動力の一つにしてもいるわけだ。滝沢和子(風吹ジュン)の、熱はこもっているが全く人の心を打たない演説も、「死による感動」への自己批判的なシニシズムによる感動冷却効果をより高める。

この田辺の自宅を、イキガミを届けに藤本(松田翔太) が訪ねるシーンの導入部となるショットは、画面奥にマンションを捉えつつ、その前に立つフェンスの角が画面中央から迫ってくる構図や、夜であることの暗さにより、禍々しい印象を醸し出している。田辺の自宅内や、藤本を迎える母親、そして何より藤本自身が、いかにもどこにでもいそうな卑近な日常感を有しており、イキガミ的世界への導入として的確。

飯塚さとし(山田孝之) が、自分の死後にその角膜を妹に移植させるために病院中の人々から協力をとりつけて奮闘するシーンは、妹・さくら(成海璃子)が時間を尋ねる相手が、人のよさそうな老婦人であることや、この老婦人が、さとしと藤本が配ったチラシの文面を確認しながら慎重に答える様子、通常より早く売店を開けるために皆が奮闘する姿、売店に向かうさくらの周囲に貼られた無数のチラシと、それを見ることのできないさくら、といった丁寧な演出で、実に感動的に見せていく。だがその結果、遂に目的を達したさとしは、「死にたくない…」と、皆の眼前でぶざまに両手を床について泣く。この、美しさだけで終われない本音を最後に挿入しているところが、この作品の一片の良心というものなのだろう。

(評価:★4)

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