[コメント] フローズン・タイム(2006/英)
映画を見終った人むけのレビューです。
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時間の停止、という設定について、よくもわるくも、突っ込んだ展開や解釈が用意されているわけではなく、導き出されるのは、たとえば、時間の流れを速くしたり遅くしたり静止することはできても、巻き戻すことはできない、行いは取り消せない、という、しごくまっとうな教訓。あるいは、最初はくたびれたレジ係にしか見えなかったヒロインが主人公が焦点を合わせるにつれて見違えて美しくなっていくこのプロセスを受けるようにして紡ぎ出される、愛は人生のなかで立ち止まるその一瞬のなかに見つかるもの、という、これまた肩肘張らない等身大の結論。うっかり邦題からなにかひんやりとしたタッチのようなものを期待してしまっていたので、こんなにぽかぽかと明るい話とは思わなかった。
ということで期待を裏切られはしたのだけれど(スピード感のない『レクイエム・フォー・ドリーム』みたいな映画かと勝手に思い込んでいた)、スーパーの通路に散らばった豆かなにかの前でじっとひじをついて「静物画」している主人公、「これは、まさに現代の『グラディエーター』だ。私をラッセル・クロウだと思ってくれたまえ。君たち? 君たちは忠実な奴隷だ!」と史上最低にやる気のなくなる激励演説などなど、個人的には愛着を感じてしまう。バイト仲間の救いのない雰囲気を描きつつも、『トレインスポッティング』的な悲惨に転がる気配はなく、あるいはそもそもの不眠の扱いにしても、口当たりがよすぎる気がしないでもないが、そういう抑制の効いた作りがとりたてて身構えずに映像を楽しませてくれているのも事実。生ぬるいといえば生ぬるいに違いないのだが、生ぬるさへの許容と受け取っていいのかもしれない。足元に転がる閉塞感の種に眠気まなこを向けつつも、焦燥はしない、 そんなスーパー・マーケットの光に満たされた夜の生ぬるさが、この映画の基調。
それでもあえて厳格さを求めるなら、目を引くのが、モノローグを効果的に利用しながらワンカットで実に空間的になされる回想突入。見ているあいだは、遊び心として単純に感心するだけだったけれど、勝手に深読みすれば、過去が空間化されているのは、主人公がいまその場で生きられている現在をも観察の対象としてすでに空間化してしまっている(対話的に参加する場としてよりも、独白のなかにとらえている)から、とも言えなくはない。時間を止める、というのは、『ジョジョの奇妙な冒険』第何部だったかなり、『トゥームレイダー』なりが分かりやすいヴィジュアル(=視覚!)を提供してきたように、一方的に見る(=すなわち、支配権を握る)、という経験としてふつう想像されている。しかし、一方的に見る、というのは、逆に言えば、相互的な関係を持てない(=時間を共に過ごせない)、ということで、実際、この映画の前半にはそういう含みが感じられた。女性をあたかも所有するかのように見つめたところで、かえって距離はつのるばかり、という中盤のヒロインとの関係の描写にも、写真家出身という監督らしい実感のこもった洞察を感じさせる。傍観者になってしまったから観察(=時間の静止)に徹するのか、観察に徹するから傍観者になってしまうのか、いずれにしても、もしそのまま進み続ければ、行き着く先は時間の外(=誰とも関係できない)しかない。そういう意味で、『π〈パイ〉』化していく映画なのかと漠然と早とちりしていたのだけれど、すでに記したように、この映画の結末は、そんな絶対孤高の光景ではなく、恋人の時間という馴染みのある絵に帰着する。ここでの「時間」は、いまやもっぱら感じ方や過ごし方の問題とされていて、示唆されかけた(と、深読みできる気がしてならない)「見る」という行為との関係は曖昧に解消されてしまう。いったん肯定しておいて無責任だが、やはり気にかかるところ。
それにしても、エンドロールに流れる、Royksopp と Karin Dreijer Andersson の"What Else Is There?"は、いい曲だけど、本編からするとちょっと荒涼とし過ぎではないだろうか?(って、なにを偉そうに、この映画ではじめて聴きましたが)
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