[コメント] レボリューショナリーロード 燃え尽きるまで(2008/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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エイプリル(ケイト・ウィンスレット)に女優としての才能が実際にあった可能性についてはかなり否定的な描かれ方がされていて、しかもその夢の挫折が作品内に充分に関わってこず、単なる一挿話として処理されている観がある。フランク(レオナルド・ディカプリオ)も、自由人風な雰囲気をまとってはいるが、自ら「作家や画家としての才能があるわけでもない」とエイプリルに話しているし、彼が他人より多少なりとも秀でたところを見せるのは、会社の詰まらない仕事に巧く対処するシーンだけだ。エイプリルがフランクを特別視するのも、「特別でありたい」という自分の夢や願望を投影しているだけなのではないかと思える。
これらは全て意図的に演出されたものに相違ないのだが、彼らがパリに託した夢に、最初から本物の可能性が感じられないせいで、彼らの逡巡や葛藤に対しても、本気で関心を寄せる気が多少なりとも殺がれてしまうのは事実。しかしまた冒頭で、エイプリルとフランクの出会いと、家庭を持ち、挫折し、喧嘩し合う仲になるまでの過程が、効率よく、しかも的確に描かれている点にも表れているように、無駄なく効果的な描写に感心させられる。
精神的な疾患を抱えている設定のジョンに、普通なら表に出せない本音を残酷なまでに吐かせることで、筋の運びを加速させている点も良い。このことで更に、ウィーラー夫妻は本音をぶつけ合う。パリ行きを諦めたと告げるウィーラー夫妻に対して、ジョンが暴言ともとれる批判をして帰った後、フランクがエイプリルに「何も言うな、君の言いたいことは分かる」と、ジョンの発言の正しさを彼女が認めていることを先読みして語る台詞など、この作品の脚本が、もったいぶった冗長さを避けて一気に本質に迫るスタイルを採っていることが如実に分かるシーンだ。
台詞といえば、フランクが会社の仕事のための文書を口頭で録音しているシーンの台詞も面白い。「在るものを確認し、必要なものを確認し、必要のないものを確認する」。この、人生についての箴言のような言葉が、「――それが在庫管理だ」という言葉によって締めくくられることで、一気に現実に引き戻されるのだ。
台詞ばかりでなく、画でも語っている。例えば、フランクが自身への誕生日祝いのように、秘書の女の子と浮気した帰りに、誕生日を妻子に祝われるシーン。一度扉を開いて彼を迎えたエイプリルが、彼に待つように告げて再び扉を閉め、フランクが待つあいだ、真っ暗な外は雷の音が小さく響いている。家庭の幸福と、孤立と隔絶の不安の同居。パーティの後でも、外には雨が降っているが、そのカットに続いてフランクがシャワーを浴びている画に繋がる。家の中でさえ雨に打たれているかのようなフランク。そこは彼の安住の場所ではないのだ。
また、最後の朝食のシーンの、世界の全てが沈黙したかのような、恐ろしいまでの静けさは、それまでの台詞の応酬によって、言いたいこと、言うべきことがことごとく言われ尽くした果てだからこそ実現しえたものでもある。その朝の光景の、白い日差しに照らされた室内の清潔さが残酷だ。そして、フランクの出社後、一人で堕胎したエイプリル。床にポツンと赤い血が沁みこんでいる、明るい室内の画の平穏さで描かれた、血塗れの殺人シーン。
全篇に渡って、話は重いが描写はサクサク進み、軽快ささえ感じられるのだが、この軽快さを妨げる要素が、夫妻の二児。ウィーラー夫妻の二対の主観で描かれている感のあるこの作品にあって、二児は殆ど彼らの行動の足枷となるばかりだ。実際、終盤では二児はどこかに預けられている。序盤の、フランクの誕生パーティーのシーンで二児が登場することが、観客に意外な念を抱かせるのも、夫妻に全く生活感がないせいだ。作品世界に於いてこの二児が、専ら異物としてしか描かれていないのは、青春時代の夢を追い続けようとして果たしえない夫妻を描く演出上、作品世界に馴染まないままにしておくのが、最も的確かつ効率的だからだろう。
良くも悪くも特別視されているウィーラー夫妻だが、彼らが交流するキャンベル夫妻やギビングス夫妻と、それほどかけ離れているわけではない。パリ行きの話を聞かされたミリー・キャンベル(キャサリン・ハーン)が、夫シェップ(デヴィッド・ハーバー)が彼女同様に、その話が非現実的だと感じていたことを知ると、安心したように泣き崩れるシーンや、シェップが、窒息しそうな家の空気から逃れるように外で独りになるのを、ミリーが呼びに来るシーン、そしてラスト・カットの、ハワード・ギビングス(リチャード・イーストン)が、ウィーラー夫妻を批難する妻ヘレン(キャシー・ベイツ)の声を聞くまいと補聴器を調節して沈黙の中に一人沈んでいく様子などからは、彼らが何らかの意味で、ウィーラー夫妻と同様の重圧に耐えながら生きていることが窺える。ただその表現が異なるだけなのだ。
劇中、最も地味な存在であったハワードに全てを集約させる締めが実に印象的。その地味な存在の仕方そのものが既に、静けさの中に一人沈んでいく生き方の表れでもあったのだろう。
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