[コメント] グラン・トリノ(2008/米)
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まずは、脚本家視点のメッセージの正体。「知力が無いなら体力を使う。体力が無ければ知力を使う。では知力も体力も無い人間はどうすれば良いのか? 答えは簡単で、体力を使うしかないに決まってるじゃないか。御託を並べてばかりで行動しないからバカなことをはじめるんだ」といったものではないかと思う。
「では老人の「死」はどう解釈するのか?そこに肝心なメッセージがあるのでは?」といったつっこみにかんしては、私は「脚本家のストーリー・テラーとしてのバランス感覚が選んだ、ベターな選択肢」と答える。
それを説明するには、この映画の「その後」を想像する必要がある。じいさんの説教や何やかやのおかげで定職についている少年。そこに知り合いのヒップホップ好きの不良黒人(私の創作人物だ)が現れる。「だっせー事してんな。ヤク売りゃこんなに儲かるぜ」と、引き連れた美女を見せびらかしながら言う。すると少年はたちどころに不良の術中にはまってしまうのではないかと私は思う。バカな少年はあまりに弱い。実直真面目な善人ほど騙されやすいのだ。他人のじじいがちょっと世話をしたところで、その影響はたかがしれているということだ。
しかしそこに「死」を持ってきて説教を「トラウマ化」すれば、少年が真っ当な人生を歩むであろう説得力に繋がるのではないか? と、脚本家は計算したのではないだろうか。洗脳用語でいうところの「アンカー」とかいうものだ。不良という抽象的存在そのものを、少年の悪夢をよみがえらせる引き金としたのだ。今作は心理描写をのぞいたプロットならぬストーリーだけを見ると、実にシンプルで陳腐とすら言える。それで心を打つのだから、それなりに本能へ訴えかけるリアリティが装飾されているのだと思う。
さて、話は監督に移る。イーストウッドは一体、何を言いたいのか? 私の考えでは、「社会のお荷物を生かしているせいで財政が圧迫されている。リベラル派の言いたい事もわかるが、死ぬべき人間もいるのだ」ではないかと思う。イーストウッドは脚本はあまり書かないほうだが、「仕事を選ぶ」という事は出来るわけで、彼の仕事には共通項があるように思える。
『チェンジリング』では凶悪犯が死に、『ミリオンダラー・ベイビー』では植物状態の人間が死んでいる。どちらもリベラル派が守るべき対象としている人種だ。そして今回は、保守派の老人が主体的に行動を起こして死んだ。
またしても今作のその後を想像してみよう。じいさんの体が弱ってきて、介護なりが必要になったとする。そうなった場合、じいさんはウンコを撒き散らしたり、チューブだらけのベッドに寝たきりになるわけだ。そんな状況に耐えられるだろうか? きっと彼にとって身の毛もよだつもので、死んだほうがましだと思うだろう。つまり『グラン・トリノ』のじいさんの最後の行動は、自殺の側面もあるのではないかと感じたのだ。そういう計算を客が潜在意識で感じて無いと、安っぽい行動に見えるはずだよ。でもすごい感動したってことは、やっぱり脚本に工夫があるんだと思う。監督による演出だの画だのでカバーするにも限界ってものがあるよ。
2010/11
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