[コメント] リリオム(1934/仏)
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ラングがナチの拘束から間一髪でフランスに逃れて撮った唯一のフランス資本作。警官不審は当然だろうし、シャルル・ボワイエが渡米の夢を語るのも私映画の印象がある。原作者のモルナール・フェレンツも前後してハンガリーからアメリカに亡命している。原作は有名らしく、森鴎外が「破落戸(ごろつき)の昇天」(15)として翻訳し、エノケンが「俺こそ色男リリオム」(54)という歌をリリースし(!)、ハリウッドで『回転木馬』(56 未見)の原作となっている(Wikiネタ)。
さて、映画は原作通りではない。原作は回想形式であり、前半地上、後半天国の転調は映画のオリジナルである。この転調はシェークスピアの「終わりよければすべてよし」が想起される。ダークな物語をハッピーエンドで終わらせるこの斬新な試みは、しかし全ての物語形式を試みたシェークスピア唯一の失敗作と見做されている。私も観たことがあるが、誠にケッタイな印象だ。ラングがこれを知らぬ訳はない。同じ轍を踏みはしないだろう。
ならばどういう意図か。私は天国篇は全部イロニーだと捉えてみたい。これはハッピーエンドではない。そもそも天国のような処への突然の転調という事態が皮肉だ。死んだボワイエを連れ去る黒ずくめの警官ふたりは、ふたりともボワイエにそっくりで、両側からボワイエの脇を取る仕草も含めてカフカ「審判」の収束を明らかに意識させる。これは引用だろうか(「審判」の出版は25年)。前半の警察の黒い印象は表白したユーモアで反復されるが、判子の件で同様に揶揄っている。
そしてラストのマドレーヌ・オズレーのボワイエを回想しての「痛みを感じさせないで殴れる人がいる」という奇妙な告白。これぞ正にイロニーだろう。オズレーがそう感じた、そのように愛した、ということ自体が皮肉なのだ。これは、なんというファッショ肯定の科白であることか。
本作のオズレーのサイレント調にデフォルメされた奇妙な造形は際立っている。最初の公園での逢引きでボワイエに「お金があったら全部あげる」と告げるのからして奇妙であり、それなのに愛しているかと訊かれて「いいえ」と答えるのも訳が判らない。なぜなのだろう。その後は彼女は彼への愛を隠さないのだから。これらの歯車の噛み合わない告白は、件のラストの告白を周到に準備している、と取りたい。常識など通用しないのだ。普通の人々がファシズムに呑みこまれたのだから。
後半の天上セットの訳の判らなさもすごいが、前半のドイツ表現主義直系の奇怪な描写群は抜群。オズレー妊娠を悦ぶボワイエが黒猫(!)と戯れる件は、猫の疾走を延々追いかけて狂ったような印象が激しい。パチンコ台など遊園地やバーの奇怪な遊具類も、犯罪の間際に屋台を転がしてくる刃物研ぎも異様だ。ボワイエが自分の胸を刺した途端にオズレーは胸を押さえる。瀕死のボワイエが自宅に運ばれる間、オズレーは戸口で胸を押さえ続ける。この蒼白なフルショットは、ならず者と愛に落ちてしまった人の不幸を描写してもの凄い。ラングが何を云いたいのか、痛いほど判るではないか。撮影はドライヤーとの共作直後のルドルフ・マテ、ラングとのフランスでの豪華な一期一会だった。
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