[コメント] 余命1ヶ月の花嫁(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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実話物としての制約にかなり意識的な脚本・演出に思えた。ごく普通の男女が、乳癌という事態に遭遇する様を、虚飾を排して描こうとする抑制が、全篇に行き渡っている。だから特に序盤の、二人の出逢いから、関係の深まりを描いていく辺りは、本当にごく普通の男女の、普通の恋愛の過程であり、率直に言えば、家族写真付きの年賀状のような、微笑ましいと同時にどうでもいいような光景でさえある。言わば、ホームビデオ的凡庸さが、おそらくは敢えて採用されている。実際のところは知らないが、赤の他人である観客の興味を特別に引くような創作を加えていない印象だ。
だが、例えば序盤のデート・シーンにしても、水族館の水槽を愉しげに眺める太郎(瑛太)のカットに続けて、千恵(榮倉奈々)のカット、そして夕方の海を一人、どこか憂いを帯びた表情で見つめている千恵のカット、と繋げていくことで、千恵が、太郎に明かせない悩みを抱えていることがそれとなく感じられる画作りが為されている。また、千恵が、少女時代の自分が写ったホームビデオを見るシーンでの、ふと寂しさのよぎる表情を捉えたカットも忘れ難い。そうした、ちょっとした瞬間に千恵の表情に生まれる憂いを捉える画によって、声高に悲劇を訴える過剰さを排しつつ、微妙な陰影が演出されている。
また、千恵と太郎が病気について話し合うシーンでは、太郎が病気を初めて知る、マンション前の遣り取りにしても、一人で旅行に出た千恵を太郎が追ってきたシーンでの、浜辺での遣り取りにしても、二人のプライバシーを尊重するかのように、長いロングショットを挿む。観客の「泣き」に奉仕するキャラクターではない、一個の人間としての千恵と太郎の立場を尊重しているように感じられた。安易な「泣ける映画」として俗情と結託することを、拒んでいるように見える。
そうした丁寧さが積み重ねられていたからこそ、終盤に向かうにつれて、片時も画面から目が離せなくなっていく。或るショットがカットされることは、或る人生の一角の時間が断ち切られるということだと、今更ながらに気づかされる。千恵の死後、太郎に手渡されるビデオレター。太郎がこれを見るシーンは、画面に向けて話し続ける千恵の姿が、長いワンカットで挿入されるが、それにも関わらず、彼女が最後にビデオのスイッチを切る瞬間が、切ない。この映画自体のラストカットも、コンパニオン・ガールを探して会場の外に出た太郎の背後で「遅れてすみません」という声が聞こえ、その方へ太郎が振り返りつつも、それは千恵ではないのだと納得するまでの時間が、ワンカットで捉えられる。ここでは、カットを割るということが、太郎が千恵への想いに一区切りをつけることと、一つになっている。
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