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[コメント] トロッコ(2010/日=台湾)

台湾人の老人たちの親日的な態度が、台湾の一時代を通り過ぎて彼らを一時は「日本人」として利用しながらも全てを過去へ押しやる日本の無関心により、痛みを伴って映じること。大事な問題を扱っているのは分かるが、脚本があまりに図式的かつ説明的。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







アイデアの元になったらしい芥川龍之介の短篇小説「トロッコ」の、少年がトロッコで遠くへと行ったあとで必死に帰路を行くという一種の成長物語を、日本と台湾の架け橋としてのトロッコという図式に上に置く構図は、以下の如く、実に明快だ。

夕美子(尾野真千子)の義父にしてその子らの祖父であるホン・リウが、日本人の仕事の確かさの証しとして感じ、またその線路の先に日本を幻視したトロッコは、「今も使える」という現在形の存在でありながら、彼は、自らが少年時代にトロッコに触れたその場所を記憶しておらず、そのことに意気消沈したようだ。そして彼宛に送られてきた、日本政府からの、恩給を拒む通知。その一方で、例の写真は息子が大事にしていた物であり、その死後は孫の手へと受け継がれたということ。夕美子はその写真に映る少年を、自らの夫だと思い込んでいたと言うし、彼女の息子・敦(原田賢人)は、台湾で髪を切られて、ますます父に似、祖父-父-孫の同一性は更に補強される。

トロッコは、日本の神宮を建設するのに使われる材木を運ぶ為のものだった、と祖父は孫たちに語る。夕美子らが彼の家に向かうシーンでも、自動車の車窓越しに古い鳥居が見えていた。トロッコは或る意味、本当に日本に通じていたのだとも言えるだろう。祖父が忘れていたトロッコの場所(今は線路さえもう無く、単なる道と化している)を教えた男は、林を買い漁って金儲けを企てていると噂されているようだが、老人たちは、むしろ木を切りすぎて弱った林を守ろうとしているのだと弁護する。日本人がかつて木を切っていった行為は、台湾と日本を繋げながらも、やはり台湾から奪っていく行為でもあったのだ。

こうして、個人的記憶と歴史の層が重ねられたトロッコに、芥川の「トロッコ」に沿った少年のドラマが描かれる。実に巧みな構成にも思えるが、そこへ至るドラマは、上述した図式を、それこそ敷かれたレール上を運ばれていくように進行する退屈さから脱していない。そもそもあの短編に描かれていたような、少年の視点ならではの郷愁とサスペンス(!)を演出する手腕などこの監督にはありそうにない。故に、勝手な思い込みと思いつきで弟・凱(大前喬一)をトロッコに連れて行った敦が、弟への邪険な態度を次第に改め、泣きじゃくる弟を慰め、靴を替えてやりさえし、励ましながら家路を急ぐシーンにも、子供にとっては大きな壁をひとつ乗り越えたというカタルシスが生じない。引きのショットを用いたりして、少年らの視線に寄り添わない撮影が間違いなのだ。少年らの行く先を隠すように霧が現れたところで、それが少年らを呑み込み圧倒するような状況としては映じず、単に眺められた画にとどまってしまう。芥川の小説では少年は一人で大人たちに連れて行かれ、帰りに急に一人にされるのであり、夜の闇が迫る緊迫感と相俟って見事な場面展開をもたらしていたが、その孤独感は、少年を兄弟二人にしたせいで雲散霧消。敦の成長を描き易くする為に弟を介在させたのだと思うが、それこそが演出の放棄だと言うべきだ。

全体的に人物描写が類型的に過ぎるのが本作最大の欠点であり(故に、家族らの会話から死者の人物像が浮き彫りになるということもない)、長い帰路の中でビービー泣き続ける弟の「もう歩けないよう」などという台詞も「子役」臭さが感じられる分、鬱陶しさばかりが際立ってしまう。で、何とか無事に母と再会した兄弟だが、自分を叱る母に対して敦が言う「お母さん、ぼくのこと、大事?」、それに答えての「世界一大事よ」。そして、兄弟が拾ってきた、羽を怪我していたらしい小鳥が、サーッとその場を飛び去っていく。台詞も含めて、何とも安直な表現。

まぁ、知らない人と接触しそうになるとピャーッと走って逃げてばかりいた少年が、早く帰りたくなったあまりに走って逃げ帰ろうとした弟のせいで、却って帰路にトロッコを使うことが出来ず、自分の足で帰る困難に見舞われ、それを通じて少しは自立したかのように見せる話の持っていき方自体は別に悪くはないのだが。トロッコを一緒に押して行った兄さんが、先立つシーンで敦が逃げ出して落とした例の写真を拾っていて、返してくれるシーンが挿まれているのは、トロッコを通じて父や祖父と同じ道を行くことを強調しようという意図だったのだろうが、当の敦は、この写真を落としたことにも気づかず、村の子らと水浴びをするシーンでも、写真が濡れないか気にする素振りすら見せない。表現に具体的な身体性が欠けているが故に、映画としての説得力が生じない。

要はこの映画は、ラスト・カット、台湾に留まって一緒に暮らしたいと言う嫁を日本に帰した老人が、孫らを見送った後、独り帰っていく後ろ姿の寂しさを見せたかったのか知れない。彼の妻も病気に倒れ、彼の傍にはいないのだ。このラスト・カットは確かに胸を打つものがあるが、だからといって作品全体を肯定するには至らない。役者は皆、自分を仕事をちゃんとしており、彼らに責任は無い。となれば、川口浩史はこのままでは更なる映画を撮る資格が無いと言えるだろう。

(評価:★2)

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