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[コメント] ペルシャ猫を誰も知らない(2009/イラン)

右側に気をつけろ』でもそうであったが、バンドの練習風景というのは実に画になる。黄、赤、青、緑、密室を彩る強い照明に照らされた演者たちの躍動感。一方野外ではゲリラ撮影のため人工の照明など手間のかかるものは用意できず、ならば屋上や高所では明け方や夕方の斜光を利用しよう(実際、真昼間に撮影された野外場面はかなり少ない)、夜間では車のライトや電灯、ネオンなど、既に撮影場所に在るものを使えばいい、と。
赤い戦車

メンバー探しは単なる方便であり、次々と素晴らしい顔を持ったミュージシャンたちを登場させるためのもの。音楽家だけでない、パスポートの値段を読み上げながら歌いだすふざけたおっさんなど、市井の人までもが良い顔をしている。

音楽家たちが演奏する場面ではもっぱらイランの街並み、人々、顔、手、足、歩行、或いは排水から立ち上る煙、イランの日常が断片的に映し出されていく。一見すると確かにPVのようにも受け止められかねないが、PVとはその曲の歌詞や曲調に沿ったコンセプトを決め、それに合うストーリーやメッセージを映像の連なりに込めたものである。然るに本作の場合、映し出されるのは上述の通りもっぱらイランの街並み、人々、顔、手、足、歩行、要するにメッセージも意味もないイランの日常の断片なわけで、これをPV的と評すのは私には違うように思われる。

むしろここで注目すべきなのは、本作が「顔」を中心とした身体表現のシネマになっているということだ。音楽家たちの顔、密売人たちの顔、断片的に映し出されていくイラン人たちの顔、顔、顔。或いは牛舎でメタルを演奏する際の牛たちの顔。それらを核に、カメラはギターを弾く指先やドラマーのスティックさばき、音楽と共に民俗的な舞を踊る人々、そういった身体的な運動をも捉えていく。こうした顔の累積はラストに到って極限のものへと到達するだろう。哀れな末路を辿る2人の「顔」が映し出されて映画は幕を閉じるのだ。

・室内シーンでは、扇風機や人影、格子状に伸びた影などが壁や天井に大きく伸びて浮かび上がり、表現主義的な面白い効果をも画面に生んでいる。少なくともこれはドキュメンタリーではなく映画を目指して作られている。

・取調べを受ける際の扉からのぞき見る視点、犬を取り上げられる際のボンネットに固定されたカメラの視点、何れも裁判所のセットや警官の衣装を用意できなかったことによる苦肉の策として、オフスクリーンを駆使したものであろう。しかし、この種の開き直りによる「大嘘」こそが何よりも映画らしくて素晴らしいじゃないか、と私は常々思うのだ。

(評価:★4)

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