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[コメント] ガンファイターの最後(1969/米)

ドン・シーゲルの演出部分はどこだろう。順撮りに近い撮影だったと仮定するなら、トッテンからシーゲルに交代しているのだから、後半部分、少なくもリチャード・ウィドマークキャロル・オコナー一味との決闘シーン以降はシーゲルの演出じゃないかと思う。
ゑぎ

 確かに、この(オコナーたちとの決闘)場面は『ペイル・ライダー』のクライマックスを思わせるような、緊張感溢れる造型なのだ。さらに、オコナーを汽車から鉄道横のコラル(牛囲い)へ追い詰めて行き、沢山の牛の中で捕縛し、引きずり回す、というシーゲルらしい暴力の爆発が見られるのだ。

 また、本作はアバンタイトル(プロローグ)とエピローグが同一の時間(夜の停車場)の場面であり、いずれもヒロインでもあるレナ・ホーンによる歌唱の劇伴が入る。そしてクレーン撮影で状況を見せる演出だ。この情感創出と簡潔さは、シーゲルの担当した部分ではないかしらん、と私には思える。

 であるならば、タイトルクレジット後の乗馬するウィドマークから後景のホテルの窓へのズームインだとか、ウィドマークの相棒のような青年ダン−マイケル・マクグリーヴィが、下宿屋の娘ヒルダ−ダーリーン・カーの脚を見る際のミタメのズームインなんていうカメラの指示は、シーゲルでなく、トッテンのものではないかと考える。ちなみに、後半は、ズームが使われていない。

 さて、中盤はシーゲル、トッテンいずれの担当か分からないが、町の男たちが、皆一様に、その顔に細かい汗をかいている、またそれが、クローズアップで示される場面が多い、という特徴が指摘できるだろう。はっきり云って、この画面はちょっと不快でした。あと、ジョン・サクソンがウィドマークに対抗する役柄として、満を持して登場する、という良い扱いかと思ったのに、何もしないで退場する、というのは、演出というよりもスクリプトの問題なのでしょうが、勿体ないというか、まだネームバリューがそれほど無い時期(『燃えよドラゴン』より数年前)だから、ということを考慮しても、なんか変な扱いでガッカリした。

#備忘でその他の脇役等を記述。

・ウィドマークが正当防衛で殺してしまった男の妻はジャクリーン・スコット

・町の名士たちが会議室に一堂に会する場面があるが、なかなかの名脇役揃い。市長はラリー・ゲイツ。医師がダブ・テイラー。葬儀屋のローヤル・ダーノ。カトリックの神父はジェームズ・オハラ。プロテスタントの牧師にハリー・ケリー・Jr。この聖職者二人はフォード一家だ。オハラは『静かなる男』でも神父だった。あと、ケント・スミスモーガン・ウッドワードデヴィッド・オパトッシュ

(評価:★3)

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