[コメント] 新 あつい壁(2007/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
「偏見や差別は、真実や正義には勝てない。真実は正義によって支えられ、初めて真実足りうる。」
青年が熊本の療養所の人から話を聞いた後に「重すぎて何も書けない。」と悩んだ末に書き始めた文章だ。
最初は興味本位で取り組んだものの、事件を知るうちに青年に芽生えた正義感がこの文章を導き出したのだろう。見ている私も青年と同じような気持ちだった。
だがしかし、左幸子演ずる女性が自分の生い立ちを告白し、「吉村さんが命をかけて家族を守ろうとしたのと同じように、あなたに話したたくもないことを話してくれた人の気持ちを考えなさい。(うる覚え)」と訴えられ、青年は立ち尽くす。私も立ち尽くすしかなかった。
原稿を持ち去ろうとする青年の腕を制止した編集長はこれからどのようなアクションを起こすのであろうか。とても印象的なラストだった。
ハンセン病とは無縁な立場としての青年、事件を証言してくれた元ハンセン病患者の人々、そして元患者家族の人、という三者三様の立場から問題を捉えようとしているので、いまだに存在する"あつい壁"が立体的に浮かび上がるようだった。
「ハンセン病とは無縁な立場としての青年」といっても、あの青年の行動は最初から危なっかしかった。冒頭で隅田川のホームレスに向けて写真をパシャパシャ撮るシーンから始まるのだが、「リストラされたの?」などとまったく臆することなく質問する。写真を撮られる相手の気持ちなど全くお構いなし。『スクラップ・ヘブン』の中の台詞を借りると、"想像力"というものが欠けているのであろう。ハンセン病に対する姿勢も似たようなもので、「死刑になった男が無実だとしたら、センセーショナルじゃないですか」などと言う。 やや類型的だが、大多数の人のハンセン病における認識というのはこの程度であろうという皮肉をこめて作られた若者像であろう。私自身もこの青年と重なる部分もあって、あのような生半可な態度でハンセン病のことを語ってはいけないのだ自戒した。それでも二度とこのようなことを繰り返さないために語り継がなければいけないのだろうとも思う。それはこの映画で最初は及び腰だった編集長、すなわちジャーナリストの役目でもあるだろう。ただ、関係者のプライバシーのことを思うと、どこまで語っていいのかわからないというジレンマも生じるわけで、それがこの映画のテーマの一つでもあろう。
ところでこの映画の問題点の一つかもしれないが、最初「これはフィクションである」という断り書きが出る。私はどこからどこまでがフィクションなのか考えながら見てしまい、何だか見えないフィルターに被せられたものを見せられているような歯がゆさを感じた。後でこの事件のことについていろいろ調べたら、ほとんどがこの映画の通りなのだ。冒頭のホームレスの設定は脚色だが、窃盗事件も本当らしい。実際の入居者の方も出演されていたようで、素人と俳優では演技のギャップがあり、そこだけノンフィクションみたいで違和感を感じたものだが、あのシーンを見ると製作者がフィクションを撮りたいのかノンフィクションを撮りたいのか解りかねた。
この映画はカンパばかりではなく、文化庁からの助成金でも作られている映画なので、死刑判決を出した国に楯突くような映画は最初から作れなかったのだろう。そのへんの曖昧なスタンスがフィクションなんだかノンフォクションなんだかよくわからない映画にさせてしまった大きな原因かもしれない。
放映終了後に中山監督が挨拶されたが、開口一番「生まれ育った熊本では偏見と差別と共に生きていた(うる覚え)」と、懺悔とも取れることを言ったのが印象的だった。 映画の中で裁判の書記官(夏八木勲)が教戒師に告白し、教戒師が「私も同罪です。」と、言うシーンがあったが、教戒師は監督であり、監督自身の懺悔をするために作った作品とも考えられよう。
私自身のことを書くと、滅多に劇場に足を運ばない自分が約半年ぶりに大勢の観客(昼、夜の部で合計818名だったらしい)の中に身を置いたのは、青年のように半ば興味本位だったのも事実だが、全生園のある東村山市民としての義務のようなものを感じたからでもある。とは言ってもこの映画はもっと多くの人々に見てもらいたいものだ。
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