[コメント] スプライス(2009/カナダ=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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土蔵で少女は妖しく成長する、なんて完全に『奇子』だし、性的な倒錯を自覚しないニンフ的な立ち位置も似ている(それが「環境」に創り出されたものであることも共通だ)。「監禁」され、「隠匿されるべき命」を創り出した手前勝手な人間の破滅劇の顛末は、容易に予想できる類いのものだが、随所の倒錯した「パパ/ママ」心理がなかなか繊細にサスペンス描写に結びついており、見逃せない。
例えば水風呂にドレンをブロディが沈めるシーン。明らかに観客は、彼がドレンを疎ましく感じて殺害しようとする「子殺し」として観ようとするのだが、かえってこれが効を奏してドレンは息を吹き返す。その際、「この子は両性であり、腫瘍にみえたものは肺である」ことを「本能(父性)」で見抜いたことをポーリーに指摘され(彼女の錯誤であるようなのだが)、これを否定出来ずに動揺するシーンなど。ブロディがドレンを疎ましく思う感情は、「父になった生き物(新米パパ)」が「赤子」に実際に対面して感じる苛立ちと同じだ。
展開される感情は一面的でなく、「子」「女」「親」「男」「生物」としてのヒトの在り様の混同のなかで表現され、ブロディとドレンの「結合」では、否応無しに在り様の倒錯の中で境界線を踏み越えた「近親相姦」というキーワードが頭をよぎるだろう。だが、何故ドレンを「娘」として見てしまうのか、「子」とはいったい何なのか。何が悪徳で美徳なのか。
そして「愛の代用品」(象徴的な小道具としての「人形」)としてドレンを「利用」する「親」もしくは「男」と「女」の身勝手さ(主演二人の仮面夫婦ぶりが自然な描き方で、ほぼセックスレス(ドレンに目撃されるセックスも「処理」のイメージに近い)であることが遠回しに表現されているあたりもなかなか効いている)。「早すぎる成長」に対面する混乱。「ダンスシーン」に対面して私たちが覚えるべきなのは感動なのか、嫌悪なのか。ヒトとしての在り様を揺さぶるシーンの数々は無視出来ない。
また、「ジンジャーとフレッド」が触手を絡ませるシーンと、ブロディとドレンのダンスシーンにおいて、「手をつなぐこと」の美しさとグロテスクが同時に提示されており、とにかく二律背反イメージを同時に提示することを貫いて語り通す姿勢には好感が持てる。全てはコインの裏表である。
ポーリーの演技は、「母性」の一面としてのエゴイズムや怪物性を理解している。観ている我々が彼女の行動に苛立たしさを覚えるということは、その目論見が成功していると評価していい。キレイゴトの表現に傾倒しないようにとの注意は見受けられるのだが、前述のようにやや安い印象は否めない。ラスト10分のジャンル映画演出にも失望する。音楽も何かをはき違えている印象。
あと、寝室の「奴らが来たぞ!」って、あれは何・・・?シルバーの趣味性を開陳する局面ではなかろうに。
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