[コメント] ヤコブへの手紙(2009/フィンランド)
映画を見終った人むけのレビューです。
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手紙が急に来なくなった時、ヤコブ牧師は「手紙が毎日来ると思い込んでいてはいけないね」と言うのだが、つまりそれまでは毎日来ていたのだろうか。世話係としてレイラが来た時には、手紙は束になって届いていた。それが急に途絶えてしまうのは不自然であり、ヤコブ宅の前で待つレイラの眼前で自転車をふいと横へと向かわせて避けていく郵便配達夫は、前日に、勝手にヤコブ宅に忍び込んでレイラに取り押さえられていたので、彼女を敬遠して逃げたようにしか見えない。元終身刑のレイラが牧師を殺していないか心配だったから忍び込んだのだという彼の言い訳が本当なのか、それともレイラが「金を盗みに来たんだね」と言ったのが正しかったのかはともかくとして。
そもそも、フィンランドの刑法や判例がどうなっているのか知らないが、姉を虐待していたその夫を思わず刺殺した、というレイラ、姉も彼女のことを気遣っていたことが、最後に明かされもするレイラが、終身刑というのはどうなのか。日の当たる場所での人生を終えさせられた人間を、神の代理人たるヤコブが救うという構図を描きたいがための、無理ある設定ではないのか。姉が何も証言しないというのもありそうにない話だ。ヤコブに、恩赦請願を頼んだのも姉なのだから。また、レイラが、面会を一切断り、姉から来た手紙も未開封のまま返送していたというのも、最後のネタバレを演出したいがための作為を感じさせる。レイラが、姉を救おうとして却って大事な夫を奪ってしまったという自責の念に駆られていることは自身の口から語られるが、それを踏まえても、一度も手紙を読まないというのは、自罰行為としてそれを行なっていたのだというところをもう少し丁寧に描かないと、なにやら設定ありきの作劇に思える。
ヤコブ宅が雨漏りしていたり、レイラに置き去りにされたヤコブが教会で仰向けになっているシーンで、十字架のキリスト像に雨が落ち、手紙に落ちた雨でインクが滲む、といったシーン、或いは、レイラが面倒くさくなって手紙を捨てる場所が水面であったりといった水のイメージは、レイラの涙へと繋がっていくようにも思えるが、脚本が甘すぎて乗れない。姉の手紙に一人涙したレイラがヤコブ宅に入ると、お茶を用意してくれていた筈のヤコブが倒れていて、葬儀シーンに繋がるというのも、かなり安直な運びだ。全ては神の意思、と観客の方でも納得してほしいのだろうけれど、安直な作劇を神の意思として肯定させようというのは、「神の計画」云々と御託を並べて、失恋で傷心のお笑いタレントに焼肉を奢らせる自称霊能力者とも、大してレベルが変わらない。
ヤコブを教会に置き去りにして一人帰ったレイラが、ヤコブの金で車を呼びながらもそのまま帰らせ、首を括ろうとするシーンでは、本当に、冒頭シーンでの会話の通り、彼女には行き場が無いのだなと感じさせられる。レイラが手紙を捨てるシーンに先立っては、配達夫から、牧師に何かするつもりじゃないだろうな、と疑念の眼差しを向けられているので、レイラの攻撃性や敵意は、彼女自身から沸いてくるというよりは、他者との関係性から引き出されている印象がある。彼女が根っからの悪人でないことを示唆するうまいやり方だが、最後にヤコブの前で、「手紙」と称して語る身の上話は、万人が同情するような話で、善悪について誰をも悩まさないような話なので、レイラという存在を、分かりやすいものにしてしまいすぎている。
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