[コメント] エンディングノート(2011/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
段取り好きの本作の主人公ほどでないにしても、本作のようにもはや自分の死が決定的となった場合、誰しも自分の臨終についてそれなりに自分でしきろうとすると思う。お別れを惜しむ家族や友人との別れもあるが、結局その人の死はその人のこれまでの人生との別れであるからだ。これまでの人生が基本的に自分の物であった以上、その死だって自分の物に決まっている。
自分の死は、自分とかかわり強い人たち、すなわち遺された人たちにとっての物でもある。自分が抜けた後のその後のその人たちの生活にも思いを巡らす。そういう考え方をすることができる人は大人だと思う。
この自分マターの死と遺された人マターの死に向き合うことになると人は多かれ少なかれ自分の死をマネジメントすることになるのだろう。その様子を団塊の世代の会社人間、しかも水準以上に「俺がしきる」という意識の強い人物を主人公にして、自分の死に対してもおおむねその過剰に仕事的な行動が予測される人物を描くことで何か面白い(悪い意味ではなく)ことが表現できるというのが監督の狙いであったろうし、観客の期待するところでもあったろう。
前置きが長くなってしまった。で、「死ぬ前にしたい10のこと」的な物語が予想どおり始まる。伊勢に旅行したり、洗礼を受けたり、インフォームドコンセントをしたり、ちょっと言い方が悪いが、主人公は絶好調だ。そこに観客は勇気ももらえるだろう。そうすることで死の恐怖を紛らせている、ということも承知の上で。そして遺書がわりのエンディングノートも準備された。
私は「自分の死は自分の物」と強く考えていた。だから、この物語は、強い意思でそれを理想どおり成し遂げた人物の堂々たる最期の物語として終わるように思った。が、そうは行かなかった。それは主人公自身もそう思ったのだと思う。
病状が進行することで、なにせ自分が自分であることを律することが難しくなってくる。理性がおよばなくなる。インフォームドコンセントの場は、医師と遺族のものとなり、自分は席から外される。外国にいる孫が無理して正月の前に自分に会いに来てくれた。もう自分が孫のいる外国にいけないかも知れないことを気遣ってくれてだ。その孫を出迎えた時の主人公の初めて見せる「弱音」を見せた顔は忘れられない。もはや自分の死は「俺が」どうこうできるものではない、そう悟ったように思った。
そこからは、主人公と主人公をとりまく家族たちの間に「自分の死」が自分から溶け出して、皆のもののように垣根をこえてあふれていく。自分の死は結局自分が独占できるものではなく、こういうふうにそこに携わる人にフラットに訪れるのだなあ、ということを思った。自分が自分でなくなる、生まれた場所である「無」に帰る、それはこういうことだと思った。
映画を観始めて、まだ、自分の死は自分の物であると強く思っていた時分、監督が主人公である父になりかわってナレーションをしていることに違和感を覚えた。ナレーションの「私」というのが、何度も「娘」の意味に聞こえたということもあるし、主人公の死のうち、主人公にとっての「自分の死」と、娘にとっての「父の死」は違うだろ、という思いだ。が、それも中盤で、主人公をもう退院させて自宅に引き取るかどうかを協議している場面で、たまらず撮影中に口を出してしまうシーンをみて、かえって個人の死が周囲へと垣根を越えていく瞬間をみたようで納得してしまった。きっとカメラがまわっていない膨大な時間、そこで娘と父の対話も尽くされていたのだろう、そんな気がした。
自分がこの主人公の立場だったら、映画好きということでもあり、おそらく娘の演出についてああだこうだ口を出したろう。俺の死に勝手な解釈をつけるんじゃない、とか、オチは「静かな正月を迎えております」という年賀状が届いちゃうっていうのがユーモラスでいいぞ、しめっぽいのはよくない、とか。
でも、最期はきっとどうでもよくなってしまうのだろう。ていうかそんな次元ではないところに行ってしまうのだろうから。タイトルのエンディングノートが最後に読まれるが、それはわずかにA4で1、2枚程度という感じのごく事務的なささやかなものだったのが意味深い。
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