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[コメント] 私が、生きる肌(2011/スペイン)

事の真相は途中で予想できるが、所詮、全てのあり得べき物語は予め、可能性として「映画」に内包されているのであり、作品の真価は、描かれる世界が、どのような感性によって「見られ=撮られ」ているか、だ。そうした心理面での深みが乏しく、まさに皮相的。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







形成外科医である医師に雇われた家政婦、と思っていた女が実は生みの母であったという、「役割の移動」は、娘を犯した(と思い込まれている)青年が、強いられた性転換と整形によって、医師の妻の役割を担わされるという形でも為されている。また更にこれは、娘に向けられた近親相姦的な欲望を満たす為の行為とも見える。それは、後に見るように、謎の人工皮膚女ベラの回想が、初めは娘の回想であるかのようにミスリードされていることや、精神科医によれば、娘は(気絶していた彼女を助け起こした)父に犯されたと思っている、などによって、非常に漠然とした形で匂わされている。医師は、娘を犯した(と彼が思い込んでいる)青年を犯すことで復讐をしているのか、それとも、娘を犯した男を犯すという形で、間接的に(かつ無意識に?)娘を犯しているのか。

ベラと医師が同衾している場面から回想へ移る箇所では、まず医師の回想において、「娘を不良に犯された私」が描かれ、次いで、隣に臥しているベラの方へカメラが寄っていってからシーン転換する回想では、娘の方からも積極的に青年を誘っていたことが明らかにされる。それが、いざインターコース、というところで、おそらくは処女であった娘が、恐れか、或いは痛みによって急に拒絶したことで、いちばん盛り上がっているところで中断を強いられた青年が逆上して殴るという形で、事が起こる。だが、気絶した娘を目の当たりにして我に返った青年は、乱れた衣服を直してやる。服を着せてやる、という行為は、彼が仕立て屋の息子だということと関連づけたくもなるのだが、それはともかく。映画の文法からして、ベラの回想であるらしいこのシーンは、娘視点で描かれている、つまりベラは娘で、医師は亡妻の姿をした娘と近親相姦をしているのだという意識を何となく抱きつつ観ていた観客は、多少なりともここで奇異な印象を受けるはず。

娘は気絶している。その最中の、青年の行動が描かれている。医師の回想では、まさに医師が見ていたものしか描かれていなかったのでは?娘が強姦されたという思い込みそのままに。事は、この作品が、視点を一貫させる姿勢で作られているのか否か、にかかっている。その答えは、ベラの正体という形で回収されることになる。可能性としては、ベラ=娘というパターンも一応はあり得た。娘自身は気絶していた間のことを後から間接的に知り、そのことによる想像が、記憶と渾然となって回想が織り成されていたのだ、というパターンだ。だがそれではやはり厳格さを欠くし、もしそうした真相であれば、僕は失望していた。実際は、ベラは青年だったのだ。

ところで、もう何度目かの繰り返しになるが、医師は、青年が娘を犯したと思い込んでいる(という体裁で描かれている、少なくとも)。さて、ベラは、虎の仮装をした男に犯される。が、男は医師の妻と勘違いして犯しているのだが、その妻は、この男と駆け落ちする途上で事故に遭い、炎上する自動車の中で皮膚を焼かれたのだ。つまり男は、犯しているつもりはなく、死んだと思っていた愛人との再会に、欲望を再燃させているわけだ。この男は実は医師の兄弟であり、生みの母は、「私の胎内に宿る狂気から生まれた」と二人について語る。一見するとこの男は乱暴者で、医師は理性的なエリートだが、より人倫を踏み越えるのは、知性の人である医師の方だ。知的であるにもかかわらず、というよりは、知的であるとは、通常の人間が(乱暴者でさえ無意識に)守っている敷居を踏み越えることでもあるのかもしれない。

全身火傷した妻の「焦げた肉の臭い」を嗅ぎながらベッドの傍で看病することに安らぎを覚えていたという医師の心情にしても、初めは妻への愛と思えたが、振り返れば、男と逃げたりせず、静かに横たわっているという状態に安らぎを覚えていたのでは?と、独占欲の権化のようにも思えてくる。結局、鏡に映った「人間ではない」自らの姿に絶望した妻は、娘の眼前で投身自殺するのだが、医師が完璧な人工皮膚を開発し、それに妻の名を付けたのは、これまた亡妻への愛と思えていたが、反面、死という形で再び自らの許から逃げてしまった妻への独占欲を更に継続させていたともとれる。彼の開発した人工皮膚は、蚊の攻撃も寄せつけない、つまり外部との接触を拒む、自己完結的な皮膚なのだ。

男が虎の仮装をしていたのは、強盗犯として顔が知れ渡っているせいだが、その、虎の皮という仮の皮膚(医師はベラに、人工皮膚の保護の為の全身タイツを「第二の皮膚と思って」着続けろと言う)の下にある尻の痣を捲って見せることで、男はインターホンのカメラ越しに母に、「こんな格好をしているがあんたの息子だよ」と証明してみせ、家に入りおおせてしまう。この、一見すると箸休め的でユーモラスなシーンには、皮膚に関る二重の描写が為されているわけだ。

医師が皮膚を模型に丁寧に貼りつけていくシーンは、その模型に描かれた線などが相俟って、完全に、青年が職業としていた仕立て屋の仕事を模倣している。皮膚と、第二の皮膚である衣服。そして、仕立て屋の模倣という形での、「役割の移動」。倒錯は幾重にも重なっている。

だが、その全ては観念的な構造の提示の域を出ていない。演者たちは良い仕事をしていたのだが、この変態的構造の中でもがく者たちの心情を深く抉る描写に乏しいのが物足りない。

ベラが、テレビで観たヨガ講座の女性インストラクターが言う「あなたの内面こそ、侵されない平穏の場所です」とかいう言葉に天啓を受けたようにヨガをするくだりは、医師によってモニター画面越しに監視されている彼女自身が、画面の中の人物に解放の糸口を見出すことや、内面を追求するヨガそのものが、ベラの美しい肉体をより鑑賞の対象に相応しいものにしていることなどの倒錯性が、ちと面白い。あの医師にしても、皮膚を開発し皮膚を愛撫し皮膚を鑑賞することで、「内面」の安らぎを得ていたのだろう。まぁ、「表層そのものでしかない映画で内面志向の人物を描く倒錯」云々とメタなことを言っても、なんか空々しい気がしてきはするのだが。

(評価:★3)

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