[コメント] 汚れた心(2011/ブラジル)
映画を見終った人むけのレビューです。
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日本人を馬鹿にしているのでも、逆にいさぎよいと言っているのでもない。普通の戦前の日本人のかたわらにはつねに大義はあったが、「愛」はなかった。日本にはない概念だったからだ。「私の愛する人よ」といった文句は西洋文化とともに運ばれてきてはいたが、まだまだ「好いた惚れた」の域を出なかったし、逆に「愛国」などということばは疑うことの許されない、西洋なら「神への愛」に等しい感情だった。「何にもまさる愛情」は、天上人に向けられるべき「規律」だった。
だから、人への愛と神への愛に翻弄される主人公は、およそ日本人らしくはない。
タカハシもワタナベも、日本の「愛国的」人物として描かれているが、芯となる部分は西洋人的なので、最期に与えられた自刃を拒む。日本人なら素晴らしく愚かしくも自刃は名誉として受け取り、嬉々として死ぬだろう。それはグローバルな視点などというものが存在しなかった時代の現実だ。たとえば大島渚が朝鮮人軍属ジョニー大倉にすら(彼は当然喜んでなどいなかったが)腹を切らせた『戦場のメリークリスマス』くらいはヴィセンテ・アモリンは知っているはずだ。
作品の入口は同じでも、この感情と生き方の出口は大きく作品を変えるだろう。たとえば。
タカハシは自分の行動を正義と信じ、幾多の同胞を斬ったあげく、そこに異論をはさんだワタナベ大佐をも刀にかけ、そこで自刃をこころみる。だが、いざ腹を切ろうとしたところにミユキが現われ、それを阻み治安当局にも知らせる。タカハシは助かり、刀を取り上げられて虜囚の身になるが、「愛」をもって彼を救ったミユキを国賊となじり、彼女は傷心とともに去る。そして投獄されてからの教育で「愛」の重さを知り、後悔に打ちひしがれてタカハシは贖罪の日々をおくる…。
こんなふうだろう。これだけでも筋が変わるし、結論も異なる。これが「愛の物語」だという芯は通し、それが人間の行動をも変えるプロットは活かしてもこれだけ違う話になる。
もちろん、『汚れた心』という作品の意義は認める。だが、日本人にとっては『蝶々夫人』と同程度の意義に凋落してしまうシロモノであるのだ。嘘で免罪されるよりは、事実で罰されるほうがはるかにマシである。外国人ならではの中立性は買ったうえで、やはり日本のプロデューサーサイドももっと意見を出してほしくもあった。
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